能楽師、川口先生の文化コメント抜粋

2017-03-25
養芯会各位、また、文化に携わる皆さま


私からのコメントは先ずは控えます。

養芯会とゆかりのある、能楽師・川口先生の文化についての発言を掲載します。
掲載について、川口先生による許可をいただいています。

武に携わる私達が心にとどめておく言葉が様々入っております。


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ホリエモンの言説を待つまでもなく、日本の伝統的な分野には修業不要論がつきまとう。
修業不要論とは、たとえば寿司屋に入ったら何年も客の前で寿司を握らせてもらえず、技は盗めとしか言われず、洗い物や掃除片付けばかりさせられる、その上大将や兄弟子の小言やしごきがすごく、そんなネガティブな目に遭うことが本当に寿司職人になるために必要なのか?というイメージで語られます。
そんなところに入らずとも、無駄なことさせられずとも、入った日から道具の使い方や寿司の握り方を専門的に学べるようにすれば、古臭いやり方をするより数十倍も早く技術を習得できるし、不条理を押し付けられて人間的にもねじ曲がらずに済むという考えもあります。
そう聞くと確かにそうかなぁとも思いますが、僕が身を置く能の世界は日本の古い修業形態にどっぷりと浸かっています。
僕自身、色々な目に会いながら、昔の人とは比べようもないほど生半可ながら、七年ほど住み込みの修業をいたしました。
その経験からすると修業はさせていただいて本当によかったと思いますし、内弟子修業を経た人で入らなければよかったと考える人は、恐らく一人もいないのではないでしょうか。
よく師匠が「修業しなかった役者からは能楽師の匂いがしない」とおっしゃいます。
これをひとまず始めの例えに戻すと「寿司屋の匂いがしない」ということになるでしょうか。
回転寿司ならいざ知らず、僕が寿司屋に行って感動するのは、その一つの寿司を握り出すまでにかけられた、背後にあるやすからぬ時間や思いの堆積と、それを食材を使って紡ぎ出す職人のさり気なさににじみ出る、物語に対してなのだと思います。
大げさに言えば僕は味に半分、その物語にも半分お金を払っているのだと思います。
また、その人個人の紡ぎ出した物語とも不可分ですが、師匠がおっしゃるその分野に携わる人ならではの「匂い」というものは確かにあるのだと思います。
それは(住み込みのある分野で言えば)代々家を受け継いできた師匠と生活をともにする修業の間に、その人の骨身に刷り込まれる、その分野が経てきた時代の堆積からくる匂いなのだと思います。
それは積み重なった古い本が発するカビ臭さに通じる、その分野独特の匂いです。
寿司で言えば古来の発酵食品に対する江戸のファーストフードとして始まり、時代の粋や職人の手わざの残影を受け継ぎながら時代を越えるうち醸成された、寿司職人特有の匂いがあると思います。
能楽師にも当然それはあって、ある演者が舞台に立ったとき、芸の巧拙やその人独特の魅力の他に、能楽師の匂いとも言うべき、能が経てきた時代の堆積から来るとしか思えない匂いを嗅ぐことがあります。
何がどう作用してその匂いが刷り込まれるのかはわかりませんが(本当は何となくわかりますが)、能楽師の匂いを身につけるには内弟子修業が欠かせないことがわかっているから、師匠もああおっしゃるのでしょう。
煎じ詰めれば舞台の魅力、飲食店の魅力とは、そこに立つ「人間」の魅力なのであり、僕の見聞の限りで言うと、レベルの違いはあれ修業の経験とは、その人に言葉にはし難い香りを纏わせるものなのだと思います。
ちょっとしたセンスや、よく出来たカリキュラムで一年や二年のうちに身につけた物にあふれた社会は、簡便だけれども貧しい。
豊かさとは等価交換を超えたところにあります。
古風な修業の道は一見ブラックかもしれませんが、先人たちの踏み固めた道の果てには、本質という名山がそびえ立ち、険しくとも折々に素晴らしい景色がひろがるのを、僕は確かに見ました。
弛まぬ歩みの道すがら、短い人生の数十年を費やして生み出された一つのものに、僕らは感動するのだと思います。
若者、特に男の子には、何でもいいから好きな物を見つけて修業すべしと言いたいです。
ちゃんと目を開いていればそういう世界は見つかりますし、その世界はあなたを是非とも必要としているのです。

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以上