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関東エリアの音楽団体が書いた2020年6月のブログ一覧

ホームでの再始動!

新型コロナウイルス感染拡大防止のために
3/28に予定していました第13回定期演奏会を中止して以降、
毎週土曜日の練習の方も、実施を見合わせてきました。

6月に入り、緊急事態宣言が解除されてからは、
感染防止対策を十分取った上での練習再開を模索し、
6月中旬から、人数を絞っての練習を再開しました。

そして今日からは待ちに待った、私達のホーム・白幡地区センターでの練習再開!

私達は、以下のような感染防止対策を行いながら活動を再開します。
・練習前に全員検温、手をアルコール消毒
・演奏者間は極力2mの距離を取る(それが可能な人数まで参加者を限定)
・演奏者および指揮者は、演奏中フェイスガードを着用
・1時間ごとに5分間、練習場を換気
・全員に毎回唾受けを配布、練習後に回収し廃棄
・練習後に使用した椅子・机などを消毒

様々な機関から発表された研究成果やレポートをもとに、
私達の取り得る、最大限の感染防止対策を施した上で、活動を再開していきます。

まずは10/4に開催を予定している、
英国式ブラスバンドによる東日本大震災復興支援チャリティコンサート、
Brass for Japan 2020 〜横浜から元気を〜
に向けての準備を進めていきます。
参加者募集は8月末まで。詳しくは以下のURLをご参照ください。

https://brass4japan.localinfo.jp/

活動再開!

ブリモニはいよいよ本日、国・県・市の手引きやガイドライン、および、内外のオーケストラが発信している実験データを参考に、独自のブリモニ活動マニュアルを策定し、これに従って活動を再開いたしました。
内容にご興味のある方は、告知情報ページをご参照ください。

さて、3月1日に最後の練習を行って以来、およそ3ヶ月半ぶりにいつもの練習場である相模湖公民館に来ると、公民館側でもいろいろな追加ルールができており、「面倒くさい世の中になったものですねぇ」と互いにマスク越しに苦笑

まず、部屋の換気を行って、消毒用のエタノールとアルコール除菌タイプのウェットティッシュを準備。

次に、一番厄介な問題と考えていた配置の検討。
奏者と奏者の距離を2m離すのが推奨されていますが、方眼状に離すと面積がもったいないので、奏者を正三角形になるように配置したとき、メンバーの数は最大となります。
つまり全体的にはハニカム構造のようになるわけですが、画像を観てもわかる通り、2mという距離は思っていたより相当遠いw

この画像では椅子が7個見えていますが、この規則性で椅子を並べたら、この部屋でも最大20脚くらいが限界かも。
ホールのステージにしても、30脚くらいでしょうか。
この先、せめて1.5mはOKとか、ゆくゆくは1mはOKとか、ルールを緩和していかないと厳しいでしょうね。

上の画像..

郵政事業と楽団

昭和40年代から50年代にかけて、郵政事業の労使関係は極度に緊迫し、労働組合から官制レクリエーションが否定されたこともあり、楽団もその影響を少なからず受け、一時期じり貧状態ともなりました。しかしながら、紙谷氏の献身的指導の下、労使間の軋轢を超えて楽団の活動は展開されていきました。
更に、昭和50年代中盤以降、産業構造の変化とともに新日鉄などの名門職場吹奏楽団が廃部されていくのを目の当たりにし、紙谷氏の提唱により、郵政事業とともに歩む吹奏楽団づくりが進められ、郵政事業のPRや営業に結び付いた活動の機会が次第に拡大されていきました。(ちなみに、紙谷氏は永年にわたるこれら職員育成への功績等により、平成6年の逓信記念日に郵政大臣から感謝状が授与されました。)
その間、昭和55年6月には郵政省の事情から紙谷氏に対する講師請負契約(このころには、講師嘱託は「技術嘱託」(職員として採用))から「請負契約」へと変更されていた)の打ち切りや飯倉分館の改修工事に伴う「楽堂」(屋上専用練習場)の取り壊しなど、楽団はまさに運営上最も厳しい時代を迎えたが、その後数年間の自主的な郵政事業へのPR活動等の貢献が関係者に評価され、「講師謝礼」として郵政省からの補助の一部が復活されました。

現在は、国立市の郵政研修センターを借りての練習となっています。(飯倉..

紙谷先生の就任

春日氏の後任については、斎藤秀雄門下の指揮者で、当時は東京都中学校吹奏楽連盟の理事長の職にあった村方千之氏に相談したところ、斎藤秀雄指揮教室の助教を務める紙谷一衞氏が紹介され、巽久(元楽団理事長、元東京都職場吹奏楽連盟理事長)、大和田正(元楽団理事長・名誉団員)の両名が自宅を訪ね、「立派な楽団にしてほしいとは申しません。立派な吹奏楽団にするための下地を作りますから、最低10年は指導して下さい。」と指揮者就任を要請しました。
昭和38年10月、紙谷氏が郵政省の技術嘱託として採用され郵政中央吹奏楽団の指揮者に就任すると、翌年6月には早速、新宿厚生年金会館小ホールにおいて一般の方を対象とした第1回演奏会が開催されました。これは、それまでの演奏の機会の多くが郵政部内に限られていたことを考えると極めて大きな転換でありました。
更に、昭和40年には第5回東京都吹奏楽コンクールに出場し、自由曲「キージェ中尉」(プロコフィエフ/紙谷一衞編曲)を演奏し第2位に入賞。翌昭和41年には第1位を獲得し、宮城県民会館で行われた第14回全日本吹奏楽コンクールに出場しました。この時の自由曲も「バレエ組曲 牝鹿」(プーランク/紙谷一衞編曲)を取り上げるなど、既に吹奏楽の枠を超えた取り組みが始められていました。
以降、紙谷氏の数多くの楽団のための編曲作品と指揮によ..