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東京都の音楽団体が書いた2020年8月のブログ一覧

《郵政音楽祭》
 昭和62年、櫻井國臣大臣官房人事部長(当時)から、郵政省におけるレクリエーションの裾野の拡大と対外的にも通用するサークルの育成について同部厚生課に指示があり、同課では、当楽団の楽器類の大幅かつ計画的な整備を図る一方で、郵政音楽祭を支援(美術展については、当時、省主催で開催されていた)することとなった。
 郵政音楽祭は、沈滞気味であった邦楽、洋楽のサークルに、対外的な発表の機会を与え、その活動を活性化しようとの意図により企画されたものである。第1回郵政音楽祭は、港区芝公園のabcホールで開催された楽団の演奏会と共催され、フィナーレには事や尺八などを含む和洋折衷のオーケストラと合唱団を組成し、歌劇アイーダから「凱旋行進曲」(ヴェルディ作曲/紙谷一衞編曲)を演奏し、ご来臨いただいた櫻井人事部長らの絶賛を受け、翌年度からは予算化もされた。
 同音楽祭では、全国から参集した音楽サークル及び個人の発表はもとより、イイノホールで開催されるようになった第2回郵政音楽祭からは「郵政フェスティバル・オーケストラ」&「同合唱団」(出演者全員による和洋折衷の合奏団は後にこのように名付けられた)を組成し、ふみの日の歌「寂しくないですか」(近畿郵政局委嘱作品)などを演奏していたが、第7回郵政音楽祭以降は、紙谷氏のアレンジ作品をグランドフィナーレとし..

 私が入団する以前の話しですが、郵政中央吹奏楽のプロ化の話しがあったそうです。色々な問題を鑑みて反対があり断念したそうですが、入団当時の先輩方の話を聞いていると、まだまだ諦めていなかったみたいで、プロ化されたらオーディションあるのかな?だったら採用されないな…なんて本気で心配していたことを思い出しました。ただ、当時の楽団はプロ化も考えてしまうほど上手かったと思います。(個人の感想です^_^)

 常任指揮者の紙谷一衞(衞は吊)先生は、良く昔の話しをされます。
 先生が就任当時は本省内でランチタイムコンサートを定期的に開催していたのですが、あまりにもの迫力で聴衆は講堂の窓枠付近まで下がり窓を開けて聞いていたそうです。観客を無視した、「これでもか‼️」の演奏がされていたのですね。
 コンクールに対しても、人数が多く迫力ある演奏が評価されている。といつも嘆いていられました。(今は、どの団体も素晴らしい音楽をされていると思います)
 当然、紙谷先生はその様な演奏は🆖。なんとか変えようとするのですが、団員の中には受け入れられない方もいたようで、相当な人数が楽団から去っていきました。
 残ったメンバーにより、紙谷先生の音楽を始めることになるのですが、それは57年経った今でも『郵政の音楽』として後輩に引き継がれています。(中身は伴っているかって?それは..

私が入団したのは38年前の昭和57年の夏。東京都吹奏楽コンクールの2週間ぐらい前の頃でした。ちなみに、その時の課題曲は「吹奏楽のためのカプリチオ」自由曲がバッハの「プレリュードとフーガニ長調」。結果は、1位ヤマハさん、2位電電さん、3位郵政でした。毎年1位はヤマハさん、2位と3位を電電さんと郵政で交互に取り合っていた感じです。(あくまでも記憶です)

 このころは、吹奏楽オリジナル曲はほとんど手を出さず、バッハを中心とした紙谷先生のアレンジものばかり…リードやりたいな〜なんて内心思いながら練習に参加していました。

 練習は、毎週水曜日と金曜日の18時から21時まで。場所は、今は亡き飯倉分館の屋上に建てられた音楽堂!冷暖房完備(夏は暖かく冬は涼しい)シャワー付きの楽団専用の練習場です。当時の団員は飯倉分館のことを、その地名から「狸穴」と呼んでいました。実は音楽堂は図面にない違法建築でビルを改築する際に撤去され、以降、改築後の分館地下の倉庫をしばらく使わせてもらい、その後、5階の講堂に移り長い期間本拠地として活動することになります。

 さて、私が入団した当時の団員ですが、私の記憶では、フルート2、オーボエ1、クラ8、サックス2、トランペット3、ホルン4、トロンボーン5、ユーホ1、チューバ1、パーカッション1…こんな感じの編成でした。(あくまでも私の記憶で練..