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お酒とおしゃべりが大好きな某会社の関西OB達のサークル
毎月1回大阪の梅田で定例会を開きみんなで集まりわいわいがやがや、イベントの企画やいろいろ情報交換を行い楽しんでいます。

軍人の墓

2020年02月04日
今日も近鉄生駒ー王子線「元山上口駅」周辺をブラリ歩いていると、路側に高さ3mほどの立派なお墓を見つけました。墓地ではありません。



田舎育ちの私には・・・直感で軍人の墓とわかりました。
墓碑正面には「故陸軍上等兵勲八等功七級 川口弘太郎の墓」と刻まれています。

旧陸軍の階級は

階級 将官: 少将・中将・大将
   佐官: 少佐・中佐・大佐
   尉官: 少尉・中尉・大尉  ここまでが職業軍人です。

兵隊は二等兵・一等兵・上等兵・兵長 尉官から上は陸軍学校で軍人として専門教育を受けた幹部候補、つまり職業軍人です。 それに対し兵は本業が大工や百姓である招集兵です。一定期間兵役を務めた後は元の職業に戻ります。

  エリート職業軍人(部長・役員)と招集兵(平社員)の間を取り持つのが下士官(中間管理職・課長)です、軍曹・曹長がそれにあたります。一般兵は軍曹になるのが最高の出世でした。
髭をはやし、サーベルを持つことが許されていたのです。

この人は上等兵とありますが、戦死すると二階級特進するので、戦死時は二等兵だったと思われます。

【墓碑側面】

明治40年に建てられました。

旧陸軍勲位功級について

勲位は勲一等から八等までありました。
金鵄勲章は功一級から功七級までありました。

 つまり・・・この人は勲八等・功七級となっているので つまり、一番下の兵隊だったのです。
どうしてこんな立派なお墓が建てられたのでしょうか???

【墓碑裏面】

暗くて読みにくいと思いますが、入隊から戦死までが克明に書かれていました。

奉天会戦で名誉の戦死を遂げたのでした。

奉天会戦とは明治38年2月21日~3月10日にかけて行われた日露戦争最後の会戦でした。

双方60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満州の荒野で激闘を繰り広げた、世界戦史でも希に見る激戦でした。

日本帝国陸軍は24万人の将兵の内、死傷者7.5万人
ロシア帝国陸軍は36万の内、死傷者9万

彼はその内の一人だったのでしょうね。

結果、日露戦争に勝利したため、「さっさと逃げるはロシアの兵、死ぬまで尽くすは日本の兵」歌に歌われたように、村の英雄として讃えられたのでした。
だから、こんな立派な墓碑が村の路側に建てられたのです。

明治とは、「富国強兵」こんな時代だったのですね。

太平洋戦争末期、そんな悠長な状況ではありませんでした。
私の伯父(父の兄)は南方で戦死したのですが、どこで死んだか遺骨もありません。どこかの島で補給路を絶たれジャングルをさまよっている間に飢えと熱病で死んだのでしょう。哀れ名誉の戦死とも言えませんね。お墓も建ってもらえませんでした。戦死者200万人 いちいちかまっていられない状況だったことが想像できます。戦争の無い時代に生まれ育って良かったと思う。平和はいいね




 


コメント(4)
最終更新日時:2020年02月05日 07時45分
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