主な活動場所
横浜市鶴見区社会福祉協議会の
団体交流室

 良いニュース19

2023-12-16

皆様、良いニュースです。そして悪いニュースです。
義について考えたいと思います。人は色々な場面で知識を得ます。何も学問だけの知識ではありません。自然から知識を得ます。自然の働きから物理学が生まれました。何故リンゴは地面に落ちるのかを考えて、万有引力をニュートンが発見しました。惑星の運行から地球も太陽の周りを回っていることをガリレオは発見しました。もっと身近なことでは、水の入った容器を火にくべると沸騰して蒸気になるのも知識ですし、食物を煮ると食べやすくなるのも知識です。
残念ながら、こうした知識も子孫に伝えるには、実際に教えなくてはなりませんが、なぜか本能と呼ばれるプログラムは遺伝するのです。それで、知識は知恵を得させてくれます。知識を実際の活動に生かせるのが知恵です。そうした知恵によって正しいことが判別できるようになります。
人間の活動領域が増えると、それだけ知恵も増やさなければならないでしょう。ですから正しいと思われる事柄も増えてゆきます。義というのは知恵に照らしてみて、正しいと思われることを信じるようになります。正にただしいということで、正義ということです。
正義を実践するには正確な情報と知恵がないと難しいでしょう。そうしないと正義が揺らいでしまうからです。ある人は人類の平等が正しいと主張し、ある人は人類の自由が正しいと主張します。また、ある人は過去の人々が信じている伝統が正しいと主張します。このように人々は色々な正義を主張することで分断と敵対が起こってしますのです。どれもその主張に間違いはないかもしれません。それなのにそのように自分の主張だけを通そうとすれば対立してしまい調和を乱してしまうでしょう。
つまり正義と称するものは、結構不確かなものでしかないのです。絶対の正義と主張する輩はどうも怪しいと言わざるを得ません。それぞれの状況において、その時、その場所において正しいと思われる確率が高いというのが実態ではないでしょうか?つまり相対的で刹那的なものです。
例えば、交通事故で自動車にはねられて怪我をした歩行者について考えてみましょう。運転者からみたら、急に歩道から飛び出してきたので回避できなかった、と主張するかもしれません。歩行者からすると歩道から車道に出たが、普通の歩行で横断歩道の近くだった、と主張するかもしれません。時間が夕方で歩行者の衣服が黒くて、横断歩道の標識が見えにくくなっていた、としたらどうでしょうか?
多分、過失相殺されるでしょうし、道路標識を管轄していた交通局にも損害請求ができるかもしれません。
このように、正義を主張する事は、本当に正しい情報による検証によって導きだされるものですし、人間の感情も関わると判断はかなり難しいと言えるでしょう。正義をかざすときは本当に注意して知識と知恵を総動員しないと難しいのです。