「Another April Snow」後編
2015-09-22
二人はうきうきとした気分で水族館へ向かった。
平日の水族館はがらがらだった。二人はのんびりと手をつなぎ合って歩く。
「空いてるねえ」
「やっぱり、平日にこんなところに来る人はいないのかな」
「(笑う)あ、うまそうな魚が泳いでいるよ。ほら、見てごらん」
「やあねえ」
「今日は刺身が食べたいなあ」
「もうお!」
二人は肩を寄せ合って歩く。
水族館の中の小さな映画室。
「へえ。『海の不思議』だって。見る?」
「どっちでも」
「ええと、上映時間は・・・ああ、もうすぐ始まるね。入ってみようか」
「いいわよ」
水族館の映画室には客が誰もいなかった。インスとユナの二人はど真ん中に座った。
「がらがらだね・・・」
「ホントに・・・」
短編映画が始まると、インスの手がどんとユナの手の上に乗った。そして、手を握る。ユナがインスの横顔を見ると、イタズラ小僧のような顔をして、横目で、ユナを見た。
「ねえ、見て、うつぼよ」
「そうだね」
そう言いながらも、二人はお互いを見ている。インスがユナのほうへ首を伸ばして、即効でキスをした。
「あん・・・」
ユナはちょっと引き気味になって、顎を引いたが、インスはユナの顎を掴んで、積極的に迫ってくる。ユナもインスに押されて、インスのTシャツをしっかりと掴んだ。
顔を離すと、インスは幸せそうに微笑んだ。ユナも彼に寄りかかるように座り直し、しばし映画室の暗闇の中で二人だけの時に身を任せた。
30分ほどの映画が終わり、二人は外へ出た。
インスが映画室のほうを振りかえり、笑った。
「ここが一番よかったな」
「・・・」
「一番の観光名所だよね、サムチョクの」
「・・・もう・・・」
ユナがインスの肩を叩いた。二人は幸せそうに笑った。
ここの水族館は小さいながらも、変わった仕掛けがあって楽しめる。
「ここ、なあに? なんで吊橋なの?」
「なんでだろ? 水族館で探検?」
「やだ、ずいぶん揺れるのねえ」
「うん」
「もう・・・あなたが揺らしてるのね!」
「わかった?」
インスが楽しそうに笑った。
「バカ・・・」
揺れた吊橋の上で、ユナはインスのジャケットを掴んで、怒ったふりをした。そんなユナの態度もかわいくて、インスはうれしそうにユナの肩を抱いて歩く。
二人が展示を見て回っていると、インスの携帯が鳴った。
「ごめん・・・。電話だ。ちょっと待ってて。もしもし? 何かありましたか?」
電話といえば、だいたいが病院からだ。ユナは少し離れたところから、心配そうな顔でインスの電話を聞いている。インスの声が震えた。
「それは・・・。意識が戻ったということですか・・・?」
ユナは、インスの顔が一瞬強ばり、そして安堵に表情が緩んで、瞳が潤んでいくのを見逃さなかった。
インスは、妻のもとへ戻ってしまった・・・。
ユナは海岸の見えるコーヒーショップに座って、一人静かに海を見つめた。
インスの妻が目を覚ました。まだ、はっきりとはしていないが、これから徐々に意識が戻ってくるだろうと言うことだった。
インスは病院へと急ぎ、ユナは一人、海に残った・・・。
あの電話の数秒前、二人は幸せな恋人同士だった・・・。そして、数秒後、その幻想は消えた。
今日は6時まで時間を作っていた。水族館を見て、二人で海をそぞろ歩く予定だった。
でも、今はもう一人だ・・・。
妻の意識が戻ったのならば、彼はこれから、つきっきりで看病するだろう・・・。
しばらく会えないかもしれない・・・。
さっきの彼の顔を見たか。
一瞬、私を意識して強張り、そして、妻を思って安堵して目を潤ませた。昨日、あの人は私が恋しいと言った。誰よりも愛しいと言った。私の部屋を訪ねずにはいられないと言った・・・。そして、私を抱いた。そして、私の胸で幸せそうに寝息を立てた。
あれは、ただの寂しさからだったのだろうか・・・。
昨日、彼が酔わずにはいられなかったのは、私への愛に悩んだからに違いない。義理の父親に背徳の姿を隠さなければならない自分を責めて、私を切り捨てようとしたけれど、結局私と離れることができなかったからだ・・・。
でも・・・。
もう、そのことで心を悩ませる必要はない。結論など出さなくても、妻の目覚めで、自ずと答えが出てしまったのではないか。終わるしか・・・ないのだと・・・。
どうなるのだろう・・・私たちは・・・。
ついさっきまで、二人はまるで本当の恋人同士のようだった。本当の。本当ではないのかしら・・・。本当では駄目・・・?
今の私にとって、インスは・・・。
ユナはインスのことが気になって、病院へ帰った。
そして、インスのいる病室が覗ける病院内のスロープに立った。
妻の世話をするインスが見えた。彼は甲斐甲斐しく妻の世話をしていた。重湯だろうか、インスはスプーンにすくうと自分の口で、フーフーと冷まして、妻の口に運ぶ。やさしい手つきで、タオルで口を拭ってやる・・・。
彼の目がやさしい・・・。
そんな目をしないで・・・。
そんなにやさしくしないで! そんなにやさしく見ては駄目よ。
あなたを裏切った人よ。あなたを不幸にした人よ。
私のことは忘れたの?
一人海に残った私のことはどうでもいいの・・・?
うそつき!
ユナは頭の中が混乱し、それ以上、彼を見つめ続けることができなかった。
インスは帰っていった。彼の現実の生活に。
でも、自分はどうだろう。髪の白くなった夫はかわいそうに思えるが、そこにはもう大きな悲しみを感じない。それより今は、インスが突然自分の世界から消えてしまいそうな恐怖で、胸が痛くて苦しくて、息をするのもやっとだ。
この胸苦しさ、このざわめき・・・。
ユナはその苦しさから逃げるように、夫の待つ病室へ戻った。しかし、そこで待っていたのは、もの言わぬ夫の存在だ。まるで、空調が止まって、空気が止まってしまったような閉塞感。
なんという狭い部屋!
なんというニオイ!
なんという息苦しさ!
ここの空気は淀んでいる!
いったい、私はどこへいけばいいと言うの?
私には、ここしかないのに・・・。
好きでも嫌いでも・・・ここしかないのに。
ユナは、病室の洗面台の前に立った。
顔が、まるで般若のようだ。
駄目駄目! まだ絶望しちゃ駄目・・・。
インスが答えを出したわけではないもの・・・私が勝手に考えているだけだもん・・・。
あの人だって、きっと苦しくて仕方がないはずだわ。
私を忘れるはずがない、私を捨てるはずがない・・・。
インスは今日の成り行きをユナに説明しなくてはと思っていた。一人海に残ると言ったユナはどうしただろう。
彼女のことが気掛かりだった。
でも、まずは、スジンの世話だ。彼女を寝かしつけたら、ユナの様子を見にいこう。
インスはそんなことを考えながら、スジンを見つめた。今ここにいる妻には、生き生きと元気だったころの面影はない。目は虚ろで、心が空っぽの抜けがらだ。昔の彼女は戻ってくるのだろうか。自分は、彼女が戻る日を待ちわびているのだろうか・・・。
これがあんな事故ではなかったらどうだろう。
長い眠りから覚めた妻を、もっと大きな喜びで向かい入れられたのではないか。
人の心の移ろいというものはなんて浅ましいものだろう。
スジン、君は最愛の妻だったのに・・・。君が事故に遭ったと聞いた時、代わってあげられたらと何度思っただろう。
あの時の感情を、君への一途な愛を、もう一度取り戻すことができるのだろうか。
ユナのいる病室は病棟の2階の屋上から覗けるので、インスは屋上からちょっと覗いてみようと思った。
妻のスジンを寝かしつけると、インスは2階屋上からユナの様子を覗いた。彼女は夫の手を握って、眠っていた・・・。インスは諦めてそのまま、病室へ戻っていった。
妻のスジンが意識を取り戻してからは、インスが付き添い、泊まり込む時間が増えてきた。付き添い婦は長くスジンの面倒をみてきてくれたが、スジンにとっては初めての人である。できるだけ、夫の自分が付き添って、スジンの心が混乱しないようにしてあげたいと思った。
ユナには携帯で、「今は妻の看病に専念したい」とメールを送った。
ユナからは、「それが一番ね」というメールが返ってきた。
本当はもっと話したい感情があるのだが、この先、ユナとの関係をどう続けていったらよいのだろうか。彼女の夫も直に意識を取り戻すだろう。そうなったら、二人の関係はどうなる。
ユナは・・・彼女は、とても…愛しいけれど・・・。
スジンが目覚めてから、ユナとインスは、顔を合わせることがなくなった。
二人が逢わなくなってから半月ほど経って、ユナは、担当医に呼び出されて、今後の方針を決めることになった。ギョンホの意識は今だ戻らないままだ。ここのところで、内臓の働きが低下してきていると言うのだ。このまま、意識が戻らないと最悪な事態になりかねないという。もし、病院を移すのなら、これがラストチャンスだと、医者は言った。よければ、ソウルの大学病院を紹介するので移らないかと医者は言う。このままでは奥さんの付き添いにかかる費用だけでもバカにならないだろうと。
「あのう、一緒に事故に遭われた方はどうされるのでしょうか。もう、意識が戻られたんですよね?」
「ええ。あちらは順調に回復されていて、今月中にソウルの病院へ移ります。ご主人もお仕事がおありだし、そのほうがいいだろうと」
インスがソウルへ帰る?
そんなことは聞いていなかった・・・。
ユナは呆然とした。
ユナの中では、インスとの仲は終わっていなかった。まだ、二人の心はつながっていると信じていた。
なのに、あの人の中ではもう終わっていたのだ!
私は日に何回も、あの人を思っているというのに!
今は看護で忙しくて逢えないのかもしれないと、あの人を心配していたというのに!
私にさよならの一つも残さないで去っていこうとしている。
もう、お払い箱?
やっぱり・・・?
ただ寂しかっただけなの?
もう私には用がないの? もういらないの?
インスたちがここを去ると聞いて、ユナのショックは大きかった。彼はそのことを報告してこなかった。
私には知らせるべきでしょ?
病院のスロープを降りていくと、インスが下からゆっくり上がってきた。そして、ユナと目が合って、彼は驚いたような顔をした。
やはり、彼の心は終わっていた。
「こんにちは。お久しぶり。奥さまの意識が戻られて順調に回復しているようで、よかったですね」
「・・・」
「ソウルに戻られるんですって? ホントによかったわ。では失礼!」
「・・・ユナ・・・」
インスはユナの肩に手をかけようとしたが、ここは病院内なので、憚られた。ユナは事務的な口調でそれだけ言うと、インスにぶつかるようにして、さっさと行ってしまった。インスの一瞬の気後れで、彼女に不愉快な思いをさせてしまった。でも、彼女とはちゃんと話をしなければいけないとインスは思った。
そのことがあってから、2日ほどして、ユナの部屋のチャイムが鳴り、インスのドアをノックする音がした。
「何かご用?」
ドアを開けたユナが乾いた声で言った。
「ちゃんと話をしよう」
「話すことなんて、何もないでしょ?」
「・・・・」
「あなたの奥さんの意識が戻って、あなたはそちらの介護で忙しくなった。奥さんの体調もよくなったので、そろそろソウルへ帰ることにした。それで終わりでしょう?」
「・・・ユナ」
「それとも・・・。寂しい気分をもう紛わす必要がなくなったので、君とは別れますって言うの?」
「とにかく、ちゃんと話をしよう」
「もっと話す機会はあったはずだわ・・・。でも、あなたは来なかった・・・。メールさえ、送ってくれなかった・・・。私はあなたのことを心配して、メールも控えていたのに・・・。あなたの中ではもう終わったのでしょう?」
「・・・」
「帰ってちょうだい」
「ユナ!」
少し離れた部屋のドアから女が顔を出した。
「ちょっと静かにしてくれない?」
「あ、すみません」
「・・・」
インスが車で話そうと言うので、ユナはポーチに携帯と財布を入れて、インスの後に続いた。
「少し走ろうか」
「いいわよ・・・」
「海のほうでも行こうか」
「・・・・」
海は二人にとって特別な場所だ。初めて心が触れ合って、初めてキスをした。
インスは車の中で話そうといったのに、無言で運転している。ユナは、インスに裏切られた想いがしていたのに、こうして隣に座っている・・・。彼の隣・・・それは、今一番ユナがいたいところでもある。なのに、彼女はインスのほうを見ず、自分の窓から見える景色ばかり眺めていた。
海が近づいてきたが、インスは海へ向かわずに左へ逸れて、坂を上った。その先にあるのは、あのホテルだ。
「・・・」
「さあ、降りて」
「・・・」
「降りて」
「・・・」
インスが恐い顔をして、ユナを睨んだ。
「前回の部屋」の一つ上の階で、眺めがとてもよい部屋だ・・・。
「いい部屋ね」
「・・・」
「ねえ、話し合いをするんでしょ? 違ったの?」
「・・・そうだね」
「そうだねって? その言い方はなあに?」
「・・・」
インスはただユナを見つめている。
「私がどれだけ苦しいかわかる? あなたは奥さんと元のさやに納まってよかったけど」
「・・・」
「黙ってないで、なんか言ってよ・・・」
「・・・」
「私から逃げるように、ソウルに帰ろうとしてたくせに・・・」
そういうと、ユナは涙がこみ上げた。
「ごめんよ、ユナ・・・君に言わなければならなかった・・・。だけど、言葉にならないんだ」
「・・・」
「君から逃げたくて、ソウルに行くわけじゃない・・・。でも・・・今の状態を思うと」
「・・・でも、結局はそうでしょう」
「なんと言ったらいいのか・・・自分でも気持ちをまとめることができない・・・。でも・・・」
「・・・でも?」
「君を失ってしまうことが、怖いのは、確か」
「・・・」
「いろんな言い訳を考えた。でも・・・どれも違う」
「愛してる? 私を」
「・・・」
「それすら、わからないの?」
「・・・ただ、君がいなくて生きていけるだろうかって」
「・・・」
「自分よがりなのは、よくわかってるんだ・・・。君にこんなことを言いながら、妻の介護を続けている。でも、それがホントの気持ち・・・」
「・・・」
ユナは返す言葉を失った。なんと彼に言ったらいいのだろう。ただ、「愛している」と連呼されたほうがマシだった。
彼の中の困惑は、自分の中にあるものと同じだ・・・。そして、それには答えが出せない。
ユナはむなしさに溜め息をついて、窓の外を眺めた。
夕日が沈もうとしている。
迫りくる闇は私たちの愛を許してくれるのだろうか。
私たちにこの先、道はあるのだろうか。
インスがユナを後ろからぎゅっと抱きしめた。そして、ユナの顔に自分の顔をくっつけた。
「あなたは、私に全てを委ねるの・・・?」
「・・・」
「私を不幸にして、あなたは幸せ?」
「・・・」
「インス・・・」
ユナはインスのほうへ向き直って、彼の顔を両手で挟んだ。
「・・・インス・・・私に何を選べと言うの?」
ユナの目からは涙が落ちてきたが、インスはユナの涙を拭おうともせず、ベッドへ押し倒した。
あなたは私なしには生きられない。
私もあなたなしには生きられないだろう・・・。
でも、これが最後ね?
あなたとキスすることも。
あなたが私の胸に触ることも。
あなたが私の中にいることも・・・。
もう、全てが最後ね?
触れ合う胸も足も手も指も、この息づかいも・・・この肩も、この背中も、この涙も・・・。
これで終わりにするのね?
それなのに、私がいないと生きられないと言うのね?
それなのに、こんなにきつく抱きしめるのね?
私の心がこんなに張り裂けそうなのに・・・それを知っていて、あなたは私を抱くのね・・・?
ユナは涙で目を潤ませながらも、インスの目をしっかり見つめた。
夜明けにユナの携帯が鳴った。それは最初とても小さな音で気づかなかった。
ユナはインスの胸の中で眠っていた。眠りの中にいるユナが感じられることと言ったら、インスと自分のことだけだ。
携帯の音はだんだん大きくなり、ユナを現実に引き戻した。ユナが起き上がった。こんな時間にかかってくる電話はただ一つだけ。やはり、病院からである。
「もしもし!」
「あ、チョ・ギョンホさんの奥様ですね?」
「はい」
「先ほど、危篤状態になられました。急いで来て下さい」
「き、危篤って」
「奥さん、もう予断を許しません。とにかく、来て下さい」
「は、はい。あのう、30分くらいで行けると思います」
「とにかく、急いで来てください。ICUです」
「はい」
ベッドの上で、ユナは呆然となった。ギョンホが死にかけている・・・。
「どうしたの?」
「危篤だって・・・」
ユナはぼんやりと座り込んでいる。
「急ごう」
「うん・・・」
ユナは呆然としたまま、服を着た。
ユナの心が均衡を失った。
足が縺れそうになりながら、歩く。
インスが手を取って、心配そうにユナを見つめた。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ、きっと」
「うん・・・」
インスの車は、まだ夜が明けたばかりの海岸線を走っていく・・・。
インスとの思い出の全てがまるで本のページを閉じるように、ユナの目の前を通り過ぎ、音を立てながら封印されていく・・・。
今まで考えないようにしてきた夫の死が近づいている・・・。
車は、病院の前で停まった。
「大丈夫だよ」
「うん・・・ありがとう」
ユナは車を降り、ICUに向かって走った。
ICUの前に着いて、中を覗く。主治医がユナに気づいて出てきた。
「奥さん・・・」
「先生」
「たった今ですね、2分ほど前にお亡くなりになりました」
「・・・」
「中へどうぞ」
ユナは足がガクンとした。やっとの思いで脚を運び、ギョンホのベッドまできた。ICUの端のベッドに、ギョンホは寝ていた。まだ、白い布もかかっておらず、静かに寝ている。
病院に入院してから、もしかしたら、今までで一番元気だった頃のギョンホに似ているかもしれない、ギョンホらしい寝顔だ。顔が穏やかで、今にも起きてきそうだ・・・。ここ数か月、意識のなかった彼の中で、最も意識を持った面持ちだ・・・。
「先生・・・この人・・・」
「どうしたんですか?」
「生きてるみたい・・・。今、なんか言いたげです・・・」
「・・・ゆっくり、別れを惜しんでください」
医者はユナを残し、ICUを出ていった。
「あなた・・・。あなた、ごめんね…間に合わなくて・・・」
ユナはじっと夫を見つめた。もう亡き人になってしまった夫が愛おしかった。触ると、夫の手はまだ温かかった。ユナは彼の手を握った。
「まだ、あったかいね・・・。ごめんね、ごめんね・・・一人ぼっちで逝かせて・・・」
事故の前日、彼は軽く「一泊二日で、出張に出てくる」と言った。
「着替えはいいのお?」
「いいよ、下着1枚あれば足りるよ」
「そうお? もう寒いんだから、風邪引かないようにしてよ」
それが二人の最後の会話だった。
ここ数か月の苦しさも、夫への恨みもインスへの想いも、今全てがご破算になった。
夫は死を持って、ユナに許しを乞うた。
夫を失うこと・・・それは、新しい恋も同時に失うことだ。ユナに残されたものは、これからは一人で生きていくということだけだ。もう夫の庇護のもとにはいない。夫を失った今、インスにすがることもできない・・・。彼女は本当に一人になった。
ユナはベッドサイドに用意された白い布を夫の顔にかけた。
ユナが長いトンネルを抜け出したのか、まだその中に留まっているのか、わからない。でも、ここ、サムチョクでのやることは終わった。夫を葬儀屋に頼んで、ソウルへ遺体を送る手筈は済ませた。あとは、自分のホテルの
部屋を片付けてここを出ていくだけだ。それ以上ここに留まる理由はない・・・。
ユナは部屋の整理をして荷物を宅配便で送った。軽いボストンバッグだけ持って、部屋を後にした。インスの部屋をノックしようとしたが、これ以上彼に迷惑をかけたくなかったので、そっとホテルを出た。外は日が長くなっていて、午後5時だというのに、まだ明るかった。
バスの時間までまだ間があるので、ホテルの前のカフェバーで時間を潰すことにした。
出されたコーヒーをゆっくりと味わう。ここで、インスとよくお茶をした。そして、酒を飲んで、彼に絡んだこともあった。
この地での思い出は全てがインスにつながっていく。
窓の外を眺めていると、インスがコンビニの買い物袋を下げてホテルに戻ってきた。
インスの姿がとても懐かしい。遠い昔の恋人のように・・・。
ついこの間、辛い別れを経験したばかりだというのに・・・。
彼はホテルの中へ入っていった。
ユナはインスの部屋の窓をじっと見つめた。しばらくすると、インスの姿が見えた。彼は窓際のイスに座った。
懐かしい肩・・・。愛しい横顔。
配偶者を亡くした今のユナにとっては、インスはより遠い人になった。彼はこれから妻と人生をやり直すだろう。夫を失ったユナなど人生の重荷でしかない。もうフィフティ・フィフティの関係は築けない。
ユナはインスに最後のメールを送った。
【夫が亡くなって、全てが終わりました。今、ソウルに向かうバスの中にいます。これからソウルでの葬儀の準備などありますが、サムチョクでの全てが長い夢の中のことのようです。ただ、あなたは現実だったと信じたい。これから、私がどのように生きていこうと、あなたと出会えたことは決して忘れません。さようなら。ユナ】
ユナはインスの後姿を見つめた。彼は携帯を見ているのだろうか。じっと座って動かない。
そして、立ち上がって窓から消えた・・・。
ユナは涙を拭いて立ち上がった。
本当にバスに乗って旅立たなければ。明日へ。夫もあの人もいない明日へ・・・。
ユナは力を振り絞るようにドアを開けて、足早にカフェバーを後にした。
ユナは行ってしまった。インスが心の整理をする前に、別れは突然やってきた。
君なしでは生きていけそうもない・・・それは本当だ。もちろん、これからも妻の世話をして、仕事をしていくだろう。
でも、今、ぽっかり空いた心の穴は、彼女でなくては埋められないような気がする・・・いや、埋められない。でも、それが孤独というものかもしれない。そして、それは誰もが持っている穴なのかもしれない。でも・・・。自分はそれを埋める術を知っている・・・。知っていたのに。 今は手放すしかないのだ。
インスはギョンホの葬儀にも列席したが、会葬者が多い葬式の中では、ただユナを見つめるだけで、二人で話をする時間など持つことは許されなかった。
その後、インスの妻の体調もよくなってきて、ある日、妻のスジンがインスに尋ねた。
「インスさんは何も聞かないのね・・・。どうしてかって」
「・・・スジン。君に言わなくちゃならないことがあるんだ」
「なあに?」
「あの人は・・・亡くなったよ・・・」
「・・・・」
妻は声を立てて泣き始めた。
きっと、彼女のぽっかり空いた穴は、ギョンホにしか埋められなかったのかもしれない・・・。
インスは病室の外で、妻が悲しみにくれて泣く声を聞きながら、やがて、自分たちの生活にもピリオドをつける時が近づいていることを悟った。
妻のスジンが全快してまもなく、インスは妻と別れた。妻を恨んで別れたわけではない。それぞれの心の穴を埋める相手が違っていたことに気づいたからだ。あの事故がなければ、自分たち夫婦は仲の良い夫婦のままだっただろう。たとえ、妻が外に男を作っていたとしても、インスには最良の妻だった。でも、運命というものは、そう簡単には人に幸せを与えてはくれないらしい。秘密は明るみに出て、もう心は、元には戻ることはできなかった。
インスは一人になって、新しいアパートに移った。ユナが「大切にしてね」と言ったグリーンと一緒に。
インスはユナにメールを送った。
【結局一人になりました。あの時は君をどう思っているのか、ちゃんと言えなかった。ただ、僕がわかったことは、人には自分という深い孤独があって、そこにただ一つ温かい影が差すとしたら、それが君だったということ・・・。今頃ですが、それがわかりました。インス】
ユナはそれを読んで泣いた。すぐにでもインスのもとへ走っていって、彼を抱きしめたかった。
しかし、ユナはそれをしなかった。
ユナは夫のギョンホの画廊をギョンホの友人に譲り渡した。それが一番だと思ったから。ユナは家庭のことに追われ、彼の仕事を理解していなかった。いや、ギョンホは妻には彼の世界を見せなかった。家庭から一歩出たら、家庭というものを自分の世界から切り離して考えていた。それでも、ギョンホも、最後には誰か自分の世界を共有できる人がほしかったのかもしれない。
それがスジンだった。
ユナは美術も芝居も歌も好きだった。もし、ギョンホがユナにもっと心を開け放していたら、ユナはギョンホとともに共感し合い、家庭だけで収まることなく、もっと大きな世界を見て暮らしていけたのかもしれない。そして、彼とともに、素敵な画廊を経営していたかもしれない。
結局、人は一人では生きられない・・・。
そんなことに気づくのに、なんという代償を払ったことか。
ユナは、ギョンホの友人に画廊を譲る代わりに、彼女に合った仕事を世話してもらうことができた。
ユナは新しい仕事が軌道に乗ってから、インスにメールを送った。
【お久しぶり。やっと自分の仕事と言えるものに出会いました。絵本の編集をしているのよ。少しずつだけれど自分の世界が広がっていく気がするわ。今度あなたに会う時には、しっかりと自分の足で立っている女でありたいと思います。ユナ】
あの事故から一年経った3月のある日、ユナは勤める出版社の近くにある大学の掲示板にコンサートのチラシが貼ってあるのを見つけた。それは、最近ユナが気に入っているシンガーのコンサートだったので、シンガーの写真に引かれて、そのチラシを覗きこんだのだった。そのコンサートは4月に、ここの大学の野外ホールで開かれるとあった。
何気なく覗きこんだチラシであったが、ユナは、スタッフの名前の中にインスを発見した。
照明監督:キム・インス・・・。
胸がざわざわとざわめいた。
インスという文字が、彼女を胸苦しくし、そして、懐かしさと恋しさで彼女をいっぱいにした。
車で、コンサートの打ち合わせでやって来たインスは、大学の掲示板を見入っている女性を見て驚いた。
まぎれもなく、彼女だ。
ユナを見間違うことはない。たとえ、どんなに逢わなくても、彼女の姿を顔を忘れることはない。
インスは懐かしさに顔が綻んだ。彼女は一年前とちっとも変わっていなかった。今飛んでいけば、彼女と再会できる・・・。
懐かしさで、インスは車のドアを開けて飛び出したが、彼女はもう掲示板の前にはいなかった。
ふと気がつくと、自分の目から涙が落ちて、インスは自分自身に驚いた。
掲示板を覗いてみると、自分の参加するコンサートのチラシが貼ってあった。
ユナも自分を思い出してくれただろうか。
いや、きっと、彼女はいつも思っていてくれたに違いない。オレがいつも君と一緒にいるように。
ユナは、今プレイガイドに来ている。
「こちらのS席が今取れるお席では一番見やすいですね」
「あのう、照明係りってどこに座れば見えますか?」
「照明係りですか?」
「そう。歌手よりそっちが見たいの」
「さあ・・・ちょっとお待ちください・・・」
係りの女の子が奥へ消えた。
ユナは自分でも変なことを聞いているのはわかっているが、今見つめたいのはインスだ。
「お待たせしました。照明係りのブースはこの辺りだそうです。そうしますと、見やすいお席は・・・斜めに3段程上がっていただいて、この辺・・・いかがですか?」
「そうね・・・そこにするわ」
「かしこまりました。こちらは・・・A席になります・・・」
「ありがとう」
ユナはコンサートのチケットを手に入れた。
コンサート当日。ユナはコンサート会場に早めに入場した。
そして、仕事をするインスを眺めた。彼は若い照明係りを指導しながら、テキパキと仕事を進めていた。彼の仕事をしている姿を見るのはこれが初めてだ・・・。ユナが今まで知っていた彼はどこか混沌としていて、どこか寂しくどこか甘さがあった。今日の彼は、凛としていて、その目つきは鋭く、男臭かった。
インスの目は、時折仕事とは関係ない方向に動いていた・・・。でも、その先にある席は最後まで客で埋まることはなかった。
まだ携帯に残してあったユナのアドレスに、先日、メールを送った。今度のコンサートへ来ないかと。チケットは受付に預けておくから、ぜひ来てほしいと。でも、彼女からの返事はなく、彼女は来なかった。
アンコール曲が終わり、コンサートはとうとう全て終わってしまった。熱気でごった返した会場も、観客たちが出ていくとともにその熱も少しずつ醒め、元の静けさを取り戻そうとしている。
「先輩。お疲れ様です」
「お疲れ、あ、ありがとう」
後輩がポットからコーヒーを入れた。インスたちは、身の周りの機材の電源を切って、コーヒーを飲みながら一息つき、客が帰るのを待った。
「監督!」
「ああ、どうも」
コンサートの責任者がやってきた。
「いい舞台だったよ、ありがとう」
「どうもありがとうございます」
インスは軽く頭を下げてから、後輩に言った。
「さあ、あと、もうひと頑張りだな」
「ええ」
まだ照明器具を撤去する作業が残っている。インスはコーヒーを飲みながら、あの席を見つめた。コンサートは成功に終わったが、心に敗北感が残った。それがあの席だ・・・。
淡い期待を持って送ったメール。でも、彼女はやって来なかった。自分を嫌いになったわけではないだろう。ユナはこのコンサートのチラシを見入っていたではないか。
でも、お互いの複雑な関係を彼女は断ち切りたかったのかもしれない・・・。
つまり・・・もう終わったんだ・・・。
客が帰り、清掃員たちが入ってきた。インスはタメ息をついて、イスから立ち上がった。
そして、何気なく見た左手前方に、ユナが座っていた。
ユナはじっとインスの方を見つめていた。
驚いて、彼はユナの席のほうへ駆け寄った。
「どうしたの・・・」
「どうしたって・・・コンサート、見にきたのよ」
「だって・・・」
「ああ・・・。チケット、ありがとう・・・。でも、もう自分で買っちゃった後だったから・・・」
インスは頭に手をやって、自分の取った席のほうを見た。
「でも、あっちの席のほうが・・・」
「私、今日は歌手より見たいものがあったから・・・」
インスが振り返って、ユナを見た。
「いいでしょう? 別に歌手を見なくても」
インスは再び振り返って、照明係りのブースを見た。ここの席から丸見えだ。
「・・・」
「なんか、言ってよ」
「・・・君は・・・」
「・・・それだけ?」
「・・・バカだな」
「・・・」
ユナがインスの顔を見ると、彼の目には涙があふれていた。
「やだ・・・。逢いたかった・・・」
ユナがそう言うと、インスはユナの手を引っ張って抱き寄せた。
「・・・」
「・・・・なんか言って・・・。逢いたかったって」
「・・・。ずっと逢いたかった・・・。君をこうして抱きしめたかったよ」
「・・・・私も・・・。私も、あなたをこうして抱きしめたかった」
ユナも力いっぱいインスを抱きしめた。
インスがユナの顎を上げて顔を覗き込んだ。
「ユナ・・・来てくれたんだね、僕のところへ」
そう言うと、インスはユナの唇を見つめ、ユナは目を閉じた。
すると、ユナの唇にポツンと白いものが落ちてきた。
「冷たい」
ユナが目を開ける。
「雪だわ・・・」
「雪だね・・・」
二人は抱き合ったまま、空を見上げた。
白い雪が二人の上に降り注ぐ。
「ああ・・・雪・・・」
二人は笑顔で見つめ合い、その季節外れの雪をじっと見上げた。
雪は、やさしく、温かく、二人の上に降り注いだ。
THE END
平日の水族館はがらがらだった。二人はのんびりと手をつなぎ合って歩く。
「空いてるねえ」
「やっぱり、平日にこんなところに来る人はいないのかな」
「(笑う)あ、うまそうな魚が泳いでいるよ。ほら、見てごらん」
「やあねえ」
「今日は刺身が食べたいなあ」
「もうお!」
二人は肩を寄せ合って歩く。
水族館の中の小さな映画室。
「へえ。『海の不思議』だって。見る?」
「どっちでも」
「ええと、上映時間は・・・ああ、もうすぐ始まるね。入ってみようか」
「いいわよ」
水族館の映画室には客が誰もいなかった。インスとユナの二人はど真ん中に座った。
「がらがらだね・・・」
「ホントに・・・」
短編映画が始まると、インスの手がどんとユナの手の上に乗った。そして、手を握る。ユナがインスの横顔を見ると、イタズラ小僧のような顔をして、横目で、ユナを見た。
「ねえ、見て、うつぼよ」
「そうだね」
そう言いながらも、二人はお互いを見ている。インスがユナのほうへ首を伸ばして、即効でキスをした。
「あん・・・」
ユナはちょっと引き気味になって、顎を引いたが、インスはユナの顎を掴んで、積極的に迫ってくる。ユナもインスに押されて、インスのTシャツをしっかりと掴んだ。
顔を離すと、インスは幸せそうに微笑んだ。ユナも彼に寄りかかるように座り直し、しばし映画室の暗闇の中で二人だけの時に身を任せた。
30分ほどの映画が終わり、二人は外へ出た。
インスが映画室のほうを振りかえり、笑った。
「ここが一番よかったな」
「・・・」
「一番の観光名所だよね、サムチョクの」
「・・・もう・・・」
ユナがインスの肩を叩いた。二人は幸せそうに笑った。
ここの水族館は小さいながらも、変わった仕掛けがあって楽しめる。
「ここ、なあに? なんで吊橋なの?」
「なんでだろ? 水族館で探検?」
「やだ、ずいぶん揺れるのねえ」
「うん」
「もう・・・あなたが揺らしてるのね!」
「わかった?」
インスが楽しそうに笑った。
「バカ・・・」
揺れた吊橋の上で、ユナはインスのジャケットを掴んで、怒ったふりをした。そんなユナの態度もかわいくて、インスはうれしそうにユナの肩を抱いて歩く。
二人が展示を見て回っていると、インスの携帯が鳴った。
「ごめん・・・。電話だ。ちょっと待ってて。もしもし? 何かありましたか?」
電話といえば、だいたいが病院からだ。ユナは少し離れたところから、心配そうな顔でインスの電話を聞いている。インスの声が震えた。
「それは・・・。意識が戻ったということですか・・・?」
ユナは、インスの顔が一瞬強ばり、そして安堵に表情が緩んで、瞳が潤んでいくのを見逃さなかった。
インスは、妻のもとへ戻ってしまった・・・。
ユナは海岸の見えるコーヒーショップに座って、一人静かに海を見つめた。
インスの妻が目を覚ました。まだ、はっきりとはしていないが、これから徐々に意識が戻ってくるだろうと言うことだった。
インスは病院へと急ぎ、ユナは一人、海に残った・・・。
あの電話の数秒前、二人は幸せな恋人同士だった・・・。そして、数秒後、その幻想は消えた。
今日は6時まで時間を作っていた。水族館を見て、二人で海をそぞろ歩く予定だった。
でも、今はもう一人だ・・・。
妻の意識が戻ったのならば、彼はこれから、つきっきりで看病するだろう・・・。
しばらく会えないかもしれない・・・。
さっきの彼の顔を見たか。
一瞬、私を意識して強張り、そして、妻を思って安堵して目を潤ませた。昨日、あの人は私が恋しいと言った。誰よりも愛しいと言った。私の部屋を訪ねずにはいられないと言った・・・。そして、私を抱いた。そして、私の胸で幸せそうに寝息を立てた。
あれは、ただの寂しさからだったのだろうか・・・。
昨日、彼が酔わずにはいられなかったのは、私への愛に悩んだからに違いない。義理の父親に背徳の姿を隠さなければならない自分を責めて、私を切り捨てようとしたけれど、結局私と離れることができなかったからだ・・・。
でも・・・。
もう、そのことで心を悩ませる必要はない。結論など出さなくても、妻の目覚めで、自ずと答えが出てしまったのではないか。終わるしか・・・ないのだと・・・。
どうなるのだろう・・・私たちは・・・。
ついさっきまで、二人はまるで本当の恋人同士のようだった。本当の。本当ではないのかしら・・・。本当では駄目・・・?
今の私にとって、インスは・・・。
ユナはインスのことが気になって、病院へ帰った。
そして、インスのいる病室が覗ける病院内のスロープに立った。
妻の世話をするインスが見えた。彼は甲斐甲斐しく妻の世話をしていた。重湯だろうか、インスはスプーンにすくうと自分の口で、フーフーと冷まして、妻の口に運ぶ。やさしい手つきで、タオルで口を拭ってやる・・・。
彼の目がやさしい・・・。
そんな目をしないで・・・。
そんなにやさしくしないで! そんなにやさしく見ては駄目よ。
あなたを裏切った人よ。あなたを不幸にした人よ。
私のことは忘れたの?
一人海に残った私のことはどうでもいいの・・・?
うそつき!
ユナは頭の中が混乱し、それ以上、彼を見つめ続けることができなかった。
インスは帰っていった。彼の現実の生活に。
でも、自分はどうだろう。髪の白くなった夫はかわいそうに思えるが、そこにはもう大きな悲しみを感じない。それより今は、インスが突然自分の世界から消えてしまいそうな恐怖で、胸が痛くて苦しくて、息をするのもやっとだ。
この胸苦しさ、このざわめき・・・。
ユナはその苦しさから逃げるように、夫の待つ病室へ戻った。しかし、そこで待っていたのは、もの言わぬ夫の存在だ。まるで、空調が止まって、空気が止まってしまったような閉塞感。
なんという狭い部屋!
なんというニオイ!
なんという息苦しさ!
ここの空気は淀んでいる!
いったい、私はどこへいけばいいと言うの?
私には、ここしかないのに・・・。
好きでも嫌いでも・・・ここしかないのに。
ユナは、病室の洗面台の前に立った。
顔が、まるで般若のようだ。
駄目駄目! まだ絶望しちゃ駄目・・・。
インスが答えを出したわけではないもの・・・私が勝手に考えているだけだもん・・・。
あの人だって、きっと苦しくて仕方がないはずだわ。
私を忘れるはずがない、私を捨てるはずがない・・・。
インスは今日の成り行きをユナに説明しなくてはと思っていた。一人海に残ると言ったユナはどうしただろう。
彼女のことが気掛かりだった。
でも、まずは、スジンの世話だ。彼女を寝かしつけたら、ユナの様子を見にいこう。
インスはそんなことを考えながら、スジンを見つめた。今ここにいる妻には、生き生きと元気だったころの面影はない。目は虚ろで、心が空っぽの抜けがらだ。昔の彼女は戻ってくるのだろうか。自分は、彼女が戻る日を待ちわびているのだろうか・・・。
これがあんな事故ではなかったらどうだろう。
長い眠りから覚めた妻を、もっと大きな喜びで向かい入れられたのではないか。
人の心の移ろいというものはなんて浅ましいものだろう。
スジン、君は最愛の妻だったのに・・・。君が事故に遭ったと聞いた時、代わってあげられたらと何度思っただろう。
あの時の感情を、君への一途な愛を、もう一度取り戻すことができるのだろうか。
ユナのいる病室は病棟の2階の屋上から覗けるので、インスは屋上からちょっと覗いてみようと思った。
妻のスジンを寝かしつけると、インスは2階屋上からユナの様子を覗いた。彼女は夫の手を握って、眠っていた・・・。インスは諦めてそのまま、病室へ戻っていった。
妻のスジンが意識を取り戻してからは、インスが付き添い、泊まり込む時間が増えてきた。付き添い婦は長くスジンの面倒をみてきてくれたが、スジンにとっては初めての人である。できるだけ、夫の自分が付き添って、スジンの心が混乱しないようにしてあげたいと思った。
ユナには携帯で、「今は妻の看病に専念したい」とメールを送った。
ユナからは、「それが一番ね」というメールが返ってきた。
本当はもっと話したい感情があるのだが、この先、ユナとの関係をどう続けていったらよいのだろうか。彼女の夫も直に意識を取り戻すだろう。そうなったら、二人の関係はどうなる。
ユナは・・・彼女は、とても…愛しいけれど・・・。
スジンが目覚めてから、ユナとインスは、顔を合わせることがなくなった。
二人が逢わなくなってから半月ほど経って、ユナは、担当医に呼び出されて、今後の方針を決めることになった。ギョンホの意識は今だ戻らないままだ。ここのところで、内臓の働きが低下してきていると言うのだ。このまま、意識が戻らないと最悪な事態になりかねないという。もし、病院を移すのなら、これがラストチャンスだと、医者は言った。よければ、ソウルの大学病院を紹介するので移らないかと医者は言う。このままでは奥さんの付き添いにかかる費用だけでもバカにならないだろうと。
「あのう、一緒に事故に遭われた方はどうされるのでしょうか。もう、意識が戻られたんですよね?」
「ええ。あちらは順調に回復されていて、今月中にソウルの病院へ移ります。ご主人もお仕事がおありだし、そのほうがいいだろうと」
インスがソウルへ帰る?
そんなことは聞いていなかった・・・。
ユナは呆然とした。
ユナの中では、インスとの仲は終わっていなかった。まだ、二人の心はつながっていると信じていた。
なのに、あの人の中ではもう終わっていたのだ!
私は日に何回も、あの人を思っているというのに!
今は看護で忙しくて逢えないのかもしれないと、あの人を心配していたというのに!
私にさよならの一つも残さないで去っていこうとしている。
もう、お払い箱?
やっぱり・・・?
ただ寂しかっただけなの?
もう私には用がないの? もういらないの?
インスたちがここを去ると聞いて、ユナのショックは大きかった。彼はそのことを報告してこなかった。
私には知らせるべきでしょ?
病院のスロープを降りていくと、インスが下からゆっくり上がってきた。そして、ユナと目が合って、彼は驚いたような顔をした。
やはり、彼の心は終わっていた。
「こんにちは。お久しぶり。奥さまの意識が戻られて順調に回復しているようで、よかったですね」
「・・・」
「ソウルに戻られるんですって? ホントによかったわ。では失礼!」
「・・・ユナ・・・」
インスはユナの肩に手をかけようとしたが、ここは病院内なので、憚られた。ユナは事務的な口調でそれだけ言うと、インスにぶつかるようにして、さっさと行ってしまった。インスの一瞬の気後れで、彼女に不愉快な思いをさせてしまった。でも、彼女とはちゃんと話をしなければいけないとインスは思った。
そのことがあってから、2日ほどして、ユナの部屋のチャイムが鳴り、インスのドアをノックする音がした。
「何かご用?」
ドアを開けたユナが乾いた声で言った。
「ちゃんと話をしよう」
「話すことなんて、何もないでしょ?」
「・・・・」
「あなたの奥さんの意識が戻って、あなたはそちらの介護で忙しくなった。奥さんの体調もよくなったので、そろそろソウルへ帰ることにした。それで終わりでしょう?」
「・・・ユナ」
「それとも・・・。寂しい気分をもう紛わす必要がなくなったので、君とは別れますって言うの?」
「とにかく、ちゃんと話をしよう」
「もっと話す機会はあったはずだわ・・・。でも、あなたは来なかった・・・。メールさえ、送ってくれなかった・・・。私はあなたのことを心配して、メールも控えていたのに・・・。あなたの中ではもう終わったのでしょう?」
「・・・」
「帰ってちょうだい」
「ユナ!」
少し離れた部屋のドアから女が顔を出した。
「ちょっと静かにしてくれない?」
「あ、すみません」
「・・・」
インスが車で話そうと言うので、ユナはポーチに携帯と財布を入れて、インスの後に続いた。
「少し走ろうか」
「いいわよ・・・」
「海のほうでも行こうか」
「・・・・」
海は二人にとって特別な場所だ。初めて心が触れ合って、初めてキスをした。
インスは車の中で話そうといったのに、無言で運転している。ユナは、インスに裏切られた想いがしていたのに、こうして隣に座っている・・・。彼の隣・・・それは、今一番ユナがいたいところでもある。なのに、彼女はインスのほうを見ず、自分の窓から見える景色ばかり眺めていた。
海が近づいてきたが、インスは海へ向かわずに左へ逸れて、坂を上った。その先にあるのは、あのホテルだ。
「・・・」
「さあ、降りて」
「・・・」
「降りて」
「・・・」
インスが恐い顔をして、ユナを睨んだ。
「前回の部屋」の一つ上の階で、眺めがとてもよい部屋だ・・・。
「いい部屋ね」
「・・・」
「ねえ、話し合いをするんでしょ? 違ったの?」
「・・・そうだね」
「そうだねって? その言い方はなあに?」
「・・・」
インスはただユナを見つめている。
「私がどれだけ苦しいかわかる? あなたは奥さんと元のさやに納まってよかったけど」
「・・・」
「黙ってないで、なんか言ってよ・・・」
「・・・」
「私から逃げるように、ソウルに帰ろうとしてたくせに・・・」
そういうと、ユナは涙がこみ上げた。
「ごめんよ、ユナ・・・君に言わなければならなかった・・・。だけど、言葉にならないんだ」
「・・・」
「君から逃げたくて、ソウルに行くわけじゃない・・・。でも・・・今の状態を思うと」
「・・・でも、結局はそうでしょう」
「なんと言ったらいいのか・・・自分でも気持ちをまとめることができない・・・。でも・・・」
「・・・でも?」
「君を失ってしまうことが、怖いのは、確か」
「・・・」
「いろんな言い訳を考えた。でも・・・どれも違う」
「愛してる? 私を」
「・・・」
「それすら、わからないの?」
「・・・ただ、君がいなくて生きていけるだろうかって」
「・・・」
「自分よがりなのは、よくわかってるんだ・・・。君にこんなことを言いながら、妻の介護を続けている。でも、それがホントの気持ち・・・」
「・・・」
ユナは返す言葉を失った。なんと彼に言ったらいいのだろう。ただ、「愛している」と連呼されたほうがマシだった。
彼の中の困惑は、自分の中にあるものと同じだ・・・。そして、それには答えが出せない。
ユナはむなしさに溜め息をついて、窓の外を眺めた。
夕日が沈もうとしている。
迫りくる闇は私たちの愛を許してくれるのだろうか。
私たちにこの先、道はあるのだろうか。
インスがユナを後ろからぎゅっと抱きしめた。そして、ユナの顔に自分の顔をくっつけた。
「あなたは、私に全てを委ねるの・・・?」
「・・・」
「私を不幸にして、あなたは幸せ?」
「・・・」
「インス・・・」
ユナはインスのほうへ向き直って、彼の顔を両手で挟んだ。
「・・・インス・・・私に何を選べと言うの?」
ユナの目からは涙が落ちてきたが、インスはユナの涙を拭おうともせず、ベッドへ押し倒した。
あなたは私なしには生きられない。
私もあなたなしには生きられないだろう・・・。
でも、これが最後ね?
あなたとキスすることも。
あなたが私の胸に触ることも。
あなたが私の中にいることも・・・。
もう、全てが最後ね?
触れ合う胸も足も手も指も、この息づかいも・・・この肩も、この背中も、この涙も・・・。
これで終わりにするのね?
それなのに、私がいないと生きられないと言うのね?
それなのに、こんなにきつく抱きしめるのね?
私の心がこんなに張り裂けそうなのに・・・それを知っていて、あなたは私を抱くのね・・・?
ユナは涙で目を潤ませながらも、インスの目をしっかり見つめた。
夜明けにユナの携帯が鳴った。それは最初とても小さな音で気づかなかった。
ユナはインスの胸の中で眠っていた。眠りの中にいるユナが感じられることと言ったら、インスと自分のことだけだ。
携帯の音はだんだん大きくなり、ユナを現実に引き戻した。ユナが起き上がった。こんな時間にかかってくる電話はただ一つだけ。やはり、病院からである。
「もしもし!」
「あ、チョ・ギョンホさんの奥様ですね?」
「はい」
「先ほど、危篤状態になられました。急いで来て下さい」
「き、危篤って」
「奥さん、もう予断を許しません。とにかく、来て下さい」
「は、はい。あのう、30分くらいで行けると思います」
「とにかく、急いで来てください。ICUです」
「はい」
ベッドの上で、ユナは呆然となった。ギョンホが死にかけている・・・。
「どうしたの?」
「危篤だって・・・」
ユナはぼんやりと座り込んでいる。
「急ごう」
「うん・・・」
ユナは呆然としたまま、服を着た。
ユナの心が均衡を失った。
足が縺れそうになりながら、歩く。
インスが手を取って、心配そうにユナを見つめた。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ、きっと」
「うん・・・」
インスの車は、まだ夜が明けたばかりの海岸線を走っていく・・・。
インスとの思い出の全てがまるで本のページを閉じるように、ユナの目の前を通り過ぎ、音を立てながら封印されていく・・・。
今まで考えないようにしてきた夫の死が近づいている・・・。
車は、病院の前で停まった。
「大丈夫だよ」
「うん・・・ありがとう」
ユナは車を降り、ICUに向かって走った。
ICUの前に着いて、中を覗く。主治医がユナに気づいて出てきた。
「奥さん・・・」
「先生」
「たった今ですね、2分ほど前にお亡くなりになりました」
「・・・」
「中へどうぞ」
ユナは足がガクンとした。やっとの思いで脚を運び、ギョンホのベッドまできた。ICUの端のベッドに、ギョンホは寝ていた。まだ、白い布もかかっておらず、静かに寝ている。
病院に入院してから、もしかしたら、今までで一番元気だった頃のギョンホに似ているかもしれない、ギョンホらしい寝顔だ。顔が穏やかで、今にも起きてきそうだ・・・。ここ数か月、意識のなかった彼の中で、最も意識を持った面持ちだ・・・。
「先生・・・この人・・・」
「どうしたんですか?」
「生きてるみたい・・・。今、なんか言いたげです・・・」
「・・・ゆっくり、別れを惜しんでください」
医者はユナを残し、ICUを出ていった。
「あなた・・・。あなた、ごめんね…間に合わなくて・・・」
ユナはじっと夫を見つめた。もう亡き人になってしまった夫が愛おしかった。触ると、夫の手はまだ温かかった。ユナは彼の手を握った。
「まだ、あったかいね・・・。ごめんね、ごめんね・・・一人ぼっちで逝かせて・・・」
事故の前日、彼は軽く「一泊二日で、出張に出てくる」と言った。
「着替えはいいのお?」
「いいよ、下着1枚あれば足りるよ」
「そうお? もう寒いんだから、風邪引かないようにしてよ」
それが二人の最後の会話だった。
ここ数か月の苦しさも、夫への恨みもインスへの想いも、今全てがご破算になった。
夫は死を持って、ユナに許しを乞うた。
夫を失うこと・・・それは、新しい恋も同時に失うことだ。ユナに残されたものは、これからは一人で生きていくということだけだ。もう夫の庇護のもとにはいない。夫を失った今、インスにすがることもできない・・・。彼女は本当に一人になった。
ユナはベッドサイドに用意された白い布を夫の顔にかけた。
ユナが長いトンネルを抜け出したのか、まだその中に留まっているのか、わからない。でも、ここ、サムチョクでのやることは終わった。夫を葬儀屋に頼んで、ソウルへ遺体を送る手筈は済ませた。あとは、自分のホテルの
部屋を片付けてここを出ていくだけだ。それ以上ここに留まる理由はない・・・。
ユナは部屋の整理をして荷物を宅配便で送った。軽いボストンバッグだけ持って、部屋を後にした。インスの部屋をノックしようとしたが、これ以上彼に迷惑をかけたくなかったので、そっとホテルを出た。外は日が長くなっていて、午後5時だというのに、まだ明るかった。
バスの時間までまだ間があるので、ホテルの前のカフェバーで時間を潰すことにした。
出されたコーヒーをゆっくりと味わう。ここで、インスとよくお茶をした。そして、酒を飲んで、彼に絡んだこともあった。
この地での思い出は全てがインスにつながっていく。
窓の外を眺めていると、インスがコンビニの買い物袋を下げてホテルに戻ってきた。
インスの姿がとても懐かしい。遠い昔の恋人のように・・・。
ついこの間、辛い別れを経験したばかりだというのに・・・。
彼はホテルの中へ入っていった。
ユナはインスの部屋の窓をじっと見つめた。しばらくすると、インスの姿が見えた。彼は窓際のイスに座った。
懐かしい肩・・・。愛しい横顔。
配偶者を亡くした今のユナにとっては、インスはより遠い人になった。彼はこれから妻と人生をやり直すだろう。夫を失ったユナなど人生の重荷でしかない。もうフィフティ・フィフティの関係は築けない。
ユナはインスに最後のメールを送った。
【夫が亡くなって、全てが終わりました。今、ソウルに向かうバスの中にいます。これからソウルでの葬儀の準備などありますが、サムチョクでの全てが長い夢の中のことのようです。ただ、あなたは現実だったと信じたい。これから、私がどのように生きていこうと、あなたと出会えたことは決して忘れません。さようなら。ユナ】
ユナはインスの後姿を見つめた。彼は携帯を見ているのだろうか。じっと座って動かない。
そして、立ち上がって窓から消えた・・・。
ユナは涙を拭いて立ち上がった。
本当にバスに乗って旅立たなければ。明日へ。夫もあの人もいない明日へ・・・。
ユナは力を振り絞るようにドアを開けて、足早にカフェバーを後にした。
ユナは行ってしまった。インスが心の整理をする前に、別れは突然やってきた。
君なしでは生きていけそうもない・・・それは本当だ。もちろん、これからも妻の世話をして、仕事をしていくだろう。
でも、今、ぽっかり空いた心の穴は、彼女でなくては埋められないような気がする・・・いや、埋められない。でも、それが孤独というものかもしれない。そして、それは誰もが持っている穴なのかもしれない。でも・・・。自分はそれを埋める術を知っている・・・。知っていたのに。 今は手放すしかないのだ。
インスはギョンホの葬儀にも列席したが、会葬者が多い葬式の中では、ただユナを見つめるだけで、二人で話をする時間など持つことは許されなかった。
その後、インスの妻の体調もよくなってきて、ある日、妻のスジンがインスに尋ねた。
「インスさんは何も聞かないのね・・・。どうしてかって」
「・・・スジン。君に言わなくちゃならないことがあるんだ」
「なあに?」
「あの人は・・・亡くなったよ・・・」
「・・・・」
妻は声を立てて泣き始めた。
きっと、彼女のぽっかり空いた穴は、ギョンホにしか埋められなかったのかもしれない・・・。
インスは病室の外で、妻が悲しみにくれて泣く声を聞きながら、やがて、自分たちの生活にもピリオドをつける時が近づいていることを悟った。
妻のスジンが全快してまもなく、インスは妻と別れた。妻を恨んで別れたわけではない。それぞれの心の穴を埋める相手が違っていたことに気づいたからだ。あの事故がなければ、自分たち夫婦は仲の良い夫婦のままだっただろう。たとえ、妻が外に男を作っていたとしても、インスには最良の妻だった。でも、運命というものは、そう簡単には人に幸せを与えてはくれないらしい。秘密は明るみに出て、もう心は、元には戻ることはできなかった。
インスは一人になって、新しいアパートに移った。ユナが「大切にしてね」と言ったグリーンと一緒に。
インスはユナにメールを送った。
【結局一人になりました。あの時は君をどう思っているのか、ちゃんと言えなかった。ただ、僕がわかったことは、人には自分という深い孤独があって、そこにただ一つ温かい影が差すとしたら、それが君だったということ・・・。今頃ですが、それがわかりました。インス】
ユナはそれを読んで泣いた。すぐにでもインスのもとへ走っていって、彼を抱きしめたかった。
しかし、ユナはそれをしなかった。
ユナは夫のギョンホの画廊をギョンホの友人に譲り渡した。それが一番だと思ったから。ユナは家庭のことに追われ、彼の仕事を理解していなかった。いや、ギョンホは妻には彼の世界を見せなかった。家庭から一歩出たら、家庭というものを自分の世界から切り離して考えていた。それでも、ギョンホも、最後には誰か自分の世界を共有できる人がほしかったのかもしれない。
それがスジンだった。
ユナは美術も芝居も歌も好きだった。もし、ギョンホがユナにもっと心を開け放していたら、ユナはギョンホとともに共感し合い、家庭だけで収まることなく、もっと大きな世界を見て暮らしていけたのかもしれない。そして、彼とともに、素敵な画廊を経営していたかもしれない。
結局、人は一人では生きられない・・・。
そんなことに気づくのに、なんという代償を払ったことか。
ユナは、ギョンホの友人に画廊を譲る代わりに、彼女に合った仕事を世話してもらうことができた。
ユナは新しい仕事が軌道に乗ってから、インスにメールを送った。
【お久しぶり。やっと自分の仕事と言えるものに出会いました。絵本の編集をしているのよ。少しずつだけれど自分の世界が広がっていく気がするわ。今度あなたに会う時には、しっかりと自分の足で立っている女でありたいと思います。ユナ】
あの事故から一年経った3月のある日、ユナは勤める出版社の近くにある大学の掲示板にコンサートのチラシが貼ってあるのを見つけた。それは、最近ユナが気に入っているシンガーのコンサートだったので、シンガーの写真に引かれて、そのチラシを覗きこんだのだった。そのコンサートは4月に、ここの大学の野外ホールで開かれるとあった。
何気なく覗きこんだチラシであったが、ユナは、スタッフの名前の中にインスを発見した。
照明監督:キム・インス・・・。
胸がざわざわとざわめいた。
インスという文字が、彼女を胸苦しくし、そして、懐かしさと恋しさで彼女をいっぱいにした。
車で、コンサートの打ち合わせでやって来たインスは、大学の掲示板を見入っている女性を見て驚いた。
まぎれもなく、彼女だ。
ユナを見間違うことはない。たとえ、どんなに逢わなくても、彼女の姿を顔を忘れることはない。
インスは懐かしさに顔が綻んだ。彼女は一年前とちっとも変わっていなかった。今飛んでいけば、彼女と再会できる・・・。
懐かしさで、インスは車のドアを開けて飛び出したが、彼女はもう掲示板の前にはいなかった。
ふと気がつくと、自分の目から涙が落ちて、インスは自分自身に驚いた。
掲示板を覗いてみると、自分の参加するコンサートのチラシが貼ってあった。
ユナも自分を思い出してくれただろうか。
いや、きっと、彼女はいつも思っていてくれたに違いない。オレがいつも君と一緒にいるように。
ユナは、今プレイガイドに来ている。
「こちらのS席が今取れるお席では一番見やすいですね」
「あのう、照明係りってどこに座れば見えますか?」
「照明係りですか?」
「そう。歌手よりそっちが見たいの」
「さあ・・・ちょっとお待ちください・・・」
係りの女の子が奥へ消えた。
ユナは自分でも変なことを聞いているのはわかっているが、今見つめたいのはインスだ。
「お待たせしました。照明係りのブースはこの辺りだそうです。そうしますと、見やすいお席は・・・斜めに3段程上がっていただいて、この辺・・・いかがですか?」
「そうね・・・そこにするわ」
「かしこまりました。こちらは・・・A席になります・・・」
「ありがとう」
ユナはコンサートのチケットを手に入れた。
コンサート当日。ユナはコンサート会場に早めに入場した。
そして、仕事をするインスを眺めた。彼は若い照明係りを指導しながら、テキパキと仕事を進めていた。彼の仕事をしている姿を見るのはこれが初めてだ・・・。ユナが今まで知っていた彼はどこか混沌としていて、どこか寂しくどこか甘さがあった。今日の彼は、凛としていて、その目つきは鋭く、男臭かった。
インスの目は、時折仕事とは関係ない方向に動いていた・・・。でも、その先にある席は最後まで客で埋まることはなかった。
まだ携帯に残してあったユナのアドレスに、先日、メールを送った。今度のコンサートへ来ないかと。チケットは受付に預けておくから、ぜひ来てほしいと。でも、彼女からの返事はなく、彼女は来なかった。
アンコール曲が終わり、コンサートはとうとう全て終わってしまった。熱気でごった返した会場も、観客たちが出ていくとともにその熱も少しずつ醒め、元の静けさを取り戻そうとしている。
「先輩。お疲れ様です」
「お疲れ、あ、ありがとう」
後輩がポットからコーヒーを入れた。インスたちは、身の周りの機材の電源を切って、コーヒーを飲みながら一息つき、客が帰るのを待った。
「監督!」
「ああ、どうも」
コンサートの責任者がやってきた。
「いい舞台だったよ、ありがとう」
「どうもありがとうございます」
インスは軽く頭を下げてから、後輩に言った。
「さあ、あと、もうひと頑張りだな」
「ええ」
まだ照明器具を撤去する作業が残っている。インスはコーヒーを飲みながら、あの席を見つめた。コンサートは成功に終わったが、心に敗北感が残った。それがあの席だ・・・。
淡い期待を持って送ったメール。でも、彼女はやって来なかった。自分を嫌いになったわけではないだろう。ユナはこのコンサートのチラシを見入っていたではないか。
でも、お互いの複雑な関係を彼女は断ち切りたかったのかもしれない・・・。
つまり・・・もう終わったんだ・・・。
客が帰り、清掃員たちが入ってきた。インスはタメ息をついて、イスから立ち上がった。
そして、何気なく見た左手前方に、ユナが座っていた。
ユナはじっとインスの方を見つめていた。
驚いて、彼はユナの席のほうへ駆け寄った。
「どうしたの・・・」
「どうしたって・・・コンサート、見にきたのよ」
「だって・・・」
「ああ・・・。チケット、ありがとう・・・。でも、もう自分で買っちゃった後だったから・・・」
インスは頭に手をやって、自分の取った席のほうを見た。
「でも、あっちの席のほうが・・・」
「私、今日は歌手より見たいものがあったから・・・」
インスが振り返って、ユナを見た。
「いいでしょう? 別に歌手を見なくても」
インスは再び振り返って、照明係りのブースを見た。ここの席から丸見えだ。
「・・・」
「なんか、言ってよ」
「・・・君は・・・」
「・・・それだけ?」
「・・・バカだな」
「・・・」
ユナがインスの顔を見ると、彼の目には涙があふれていた。
「やだ・・・。逢いたかった・・・」
ユナがそう言うと、インスはユナの手を引っ張って抱き寄せた。
「・・・」
「・・・・なんか言って・・・。逢いたかったって」
「・・・。ずっと逢いたかった・・・。君をこうして抱きしめたかったよ」
「・・・・私も・・・。私も、あなたをこうして抱きしめたかった」
ユナも力いっぱいインスを抱きしめた。
インスがユナの顎を上げて顔を覗き込んだ。
「ユナ・・・来てくれたんだね、僕のところへ」
そう言うと、インスはユナの唇を見つめ、ユナは目を閉じた。
すると、ユナの唇にポツンと白いものが落ちてきた。
「冷たい」
ユナが目を開ける。
「雪だわ・・・」
「雪だね・・・」
二人は抱き合ったまま、空を見上げた。
白い雪が二人の上に降り注ぐ。
「ああ・・・雪・・・」
二人は笑顔で見つめ合い、その季節外れの雪をじっと見上げた。
雪は、やさしく、温かく、二人の上に降り注いだ。
THE END