詩篇26
2024-11-27

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
「主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。」(1節)
詩篇作者は神に裁きを依頼します。自分が誠実に歩んでいて潔白であることを証明してもらいたかったのでしょう。その裁きが間違いないことも信じています。
「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」(2節)
神が自分の心と思いを清めてくれるように願います。
「わたしは偽る人々と共にすわらず、偽善者と交わらず、悪を行う者のつどいを憎み、悪しき者と共にすわることをしません。」(4,5節)
嘘つきや偽善者と交流することもなく、悪人の会合に集うこともしません。
「主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し、あなたの祭壇をめぐって、感謝の歌を声高くうたい、あなたのくすしきみわざをことごとくのべ伝えます。」(6,7節)
手を洗うことは罪がないことを表していました。神様の祭壇を巡って感謝の歌を歌い、神の驚くべき御業を述べ伝えるようです。
「主よ、わたしはあなたの住まわれる家と、あなたの栄光のとどまる所とを愛します。」(8節)
神殿には神の栄光が表されたことがあります。そこに神が実在していることを知っているので愛するのでしょう。
「どうか、わたしを罪びとと共に、わたしのいのちを、血を流す人々と共に、取り去らないでください。」(9節)
罪人は血を流すことをするのでしょう。そうした人々と一緒に取り去らないでほしいと願います。
「しかしわたしは誠実に歩みます。わたしをあがない、わたしをあわれんでください。」(11節)
自分は誠実に歩んでいるので、たとえ罪があったとしても贖ってほしい、故意の罪ではないので憐れんでほしいと言います。
「わたしの足は平らかな所に立っています。わたしは会衆のなかで主をたたえましょう。」(12節)
平らな所は安定している場所で平安であるということです。それで、同じような思いで集っている人々とヤハウェ神を讃えると約束しています。
神は強制的に賛美をするようにとは言いません。あくまで自発的な賛美です。神の栄光は身近なところにもあります。「家は全て誰かによって造られるのであり,全てのものを造ったのは神です。」(へブル3:4)神の作品である自然が神を賛美していると思います。