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横浜市鶴見区社会福祉協議会の
団体交流室

 詩篇36

2024-12-10

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
「とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前に神を恐れる恐れはない。」(1節)この詩篇は悪の様子を示しています。罪を擬人化しているのですが、罪を犯す悪人は神への畏れの感情はないのでしょう。
「彼は自分の不義があらわされないため、また憎まれないために、みずからその目でおもねる。」(2節)
一般の社会では罪を犯してもすぐに公表されるわけではありません。警察や検察が調査して立件して裁判所で審判して、多くの年数を経て罪が確定されます。ですから世間から憎まれることもなく、自分でも罪を認めないようにしています。
「その口の言葉はよこしまと欺きである。彼は知恵を得ることと、善を行う事とをやめた。」(3節)悪人は邪と欺きの言葉を使い、知恵を得ることや善を行うことをしません。
「彼はその床の上でよこしまな事をたくらみ、よからぬ道に身をおいて、悪をきらわない。」(4節)悪人は夜に邪悪な計画を立てるようです。不義の道にいることを嫌いません。
「主よ、あなたのいつくしみは天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶ。あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣とを救われる。」(5,6節)
反対に神からの慈しみは天にまで及んでいます。神の真実は雲にまで達しています。神の正義は山のように動きません。神の裁きは深い海にまで及びます。そして人と獣まで救いをもたらすのです。もしかしたら人間性のある人や野獣性のある人にも救いをもたらすという意味かもしれません。
「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」(9節)
命には水が必要です。光はあらゆるものを見ることができるようにしてくれます。特に神からの光は真理の光で、真理を知ることができるのです。
「高ぶる者の足がわたしを踏み、悪しき者の手がわたしを追い出すことを/ゆるさないでください。」(11節)
詩篇作者は神に願います。高慢な者、つまり悪人ですが、その者が踏みつけて追い出すことがないように、とです。いつの日にも悪人はいるようです。詩篇作者はそのような悪行によって踏みつけられたり、追い出されたりされないことを願うのです。
「悪を行う者はそこに倒れ、彼らは打ち伏せられて、起きあがることはできない。」(12節)
悪人はいずれ倒れます。神がそのように裁かれるからです。その者は神に打ち伏せられているので起き上がることができないのです。
神から見て悪人とか罪びととか言われる人たちですが、これらの人々は神を認めず、自分の行いを悔い改めない人達のことと思われます。ですから、悪行をしたとしても、神に謝り、行いを改めれば、神は許してくださるのです。でも、裁きの日は近いかもしれません。