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創作を書いたり読んだりと思い思いの時をネット内でゆったりと過ごしています。

 「恋がいた部屋」7部

2015-09-22
あなたの愛が
突然、消えた

それは
いとも簡単に
私の中から姿を消した


あんなに
愛していたはずのあなた

あんなに苦しかった日々



私の心は空虚だ

何もない・・・



あなたを
愛することが

私が生きていることの
証だったのに











「う~ん・・・この絵ねえ・・・」

チェスクが、ミンスの部屋の絵の前で腕組みして考えている。




主演:ぺ・ヨンジュン
   チョン・ジヒョン
   チョ・インソン
   キム・へス

【恋がいた部屋】7部





ミ:公表すべきですか?

チ:これは・・・やめた方がいいわね。(きっぱりと言う)
ミ:・・・そうですか・・・。

チ:だって・・・やっぱり、これは・・・あなたにとってよくないわ。あなたはこれから結婚する人だし・・・。今さらヒョンジュンさんとの過去の恋を公表して、人の注目を受けるなんて・・・そんな必要はないわ。
ミ:でも、彼は、この絵が画家としての、とても大切なターニングポイントだって。
チ:そんなこと、あなたが心配する必要はないわ。・・・それに、彼はもう画家ではないのよ・・・。画家としては終わってしまった・・・。だから、この絵を公表しなくても、全く問題はないわ。
ミ:・・・そうですか・・・。


チ:ミンス・・・。ヒョンジュンさんとのことは忘れなさい。あなたも新しい人生の第一歩を踏み出さなくちゃ・・・。ね。あなた、こんな暮らししていたら、過去に留まったままよ。新しい恋をしなさい。
ミ:・・・。
チ:・・・ね。

ミ:・・・。でも・・・。ヒョンジュンがわざわざこの絵のことを言い出したのが気になるんです・・・。私に何かメッセージを送っているようで・・・。

チ:もし、送られたら、どうするの?
ミ:・・・。

チ:そんなことされても、困るにはあなたでしょ? あの人は、もう安定した生活の中にいるのよ。ソルミさんのお父様の後ろ盾があって、デザイナーとして成功している。これ以上、あなたに何をしてほしいの?(ミンスをキツイ目つきで見る)まずは、自分のことを考えなさい。あなたは自分で自分を守るしかないんだから・・・。私も協力するけど・・・あなたはこれから自力で生きていかなくちゃならないでしょ?
ミ:・・・。(俯く)

チ:彼を心配している場合じゃないわ。戦場にただ一人、残されたのはあなたよ。ミンス。・・・この絵・・・私が預かるわ・・・。うちの倉庫で保管しましょう。こんなの毎日見て暮らしていたら、あなたが駄目になっちゃう・・・。ヒョンジュンさんて・・・ホントに罪作りね・・・。

ミ:チェスクさん・・・。この絵がなくなっても、私の思いは止まらない気がするんです・・・。
チ:でも、駄目よ。大人の言うことを聞きなさい。
ミ:・・・。


チ:今日、運び出すわ。
ミ:そんな急に!
チ:もう別れは散々言ったんでしょ? もう手放しなさい。
ミ:・・・。


チ:あの、ジフン君は元気?
ミ:ええ・・・。
チ:いい人じゃない? ちょっといないわよ、あんな人。
ミ:それは・・・。
チ:陶器展の時、お母様もいらしてたわね?
ミ:ええ・・・。
チ:素敵な方じゃない? あなたが羨ましいっておっしゃって・・・。これからの人は、仕事も恋も結婚も皆、手に入って羨ましいって。あなたが仕事を続けること、勧めてたし。
ミ:・・・。

チ:ミンス・・・。今が変わるチャンスかもしれないわよ。ジフン君なら、きっと後でも後悔しないと思うの・・・。
ミ:・・・それは・・・。
チ:違う?


ミ:ジフンは、すごくいい人です・・・。ヒョンジュンなんかより、ずっと心が広くて思いやりがあって・・・。頭がよくて・・・。でも、駄目なんです・・・。そんなこと・・・わかっていても、私の心が駄目なんです。
チ:・・・。今すぐにとは言わないわ・・・。彼も若いし・・・ゆっくりでも、ジフン君に近づくことね・・・。ヒョンジュンさんは結婚しちゃったんだから・・・・。
ミ:・・・。
チ:そのことを忘れちゃ駄目よ。




チェスクがソン画廊の配送車を呼んで、ヒョンジュンの絵を運び出した。ミンスにも、頭ではわかっているのだ。
この絵と暮らすことが、自分をどんどん惨めな方向へと導いていくことだということも・・・。


チ:お預かりしたわ。あなたがちゃんと自分の生き方を確立したら、返してあげる・・・。
ミ:はい・・・。
チ:じゃあ、これで失礼するわ・・・。


チェスクが玄関のほうへ向かう。靴を履こうとして、立ち止まり、ちょっと考えて、ミンスのほうを振り返った。


チ:どうしようかと思ったけど・・・言うわね・・・。
ミ:・・・。
チ:ヒョンジュンさんの奥さんのソルミさん・・・。お腹なんか大きくないのよ。
ミ:・・・?
チ:そういうこと・・・。

ミ:・・・流産したんですか?
チ:・・・でも、ないみたい。ずっと元気にゴルフ、やってたって、友人から聞いたから・・・。
ミ:でも。
チ:ヒョンジュンさんは、赤ちゃんができたって言ったかもしれないけど・・・。
ミ:待ってください。だって、ヒョンジュンは、お医者様の診断書を突きつけられたんですよ。

チ:あなた、見たの?
ミ:・・・ええ(俯く)・・・コピーでしたけど、見ました。
チ:コピー?

ミ:ええ。でも、ヒョンジュンがもらったものです。あちらのお父様とソルミさんが並んで、ヒョンジュンの前に、それを突きつけたんです。
チ:・・・。ホント? ホントに、ソルミさんのものだったの?
ミ:・・・。

チ:今、持ってる?
ミ:いいえ、私は見ただけです・・・。ヒョンジュンと・・・あの診断書を前に、二人で話し合いました・・・。(胸が痛くなる)
チ:(ちょっと呆れたような目をして)ヒョンジュンさんて・・・本当にあなたに頼りきりというか、全て打ち明けていたのね・・・。
ミ:・・・。(泣きそうな目でチェスクを見る)
チ:そんなに近い関係だと、別れるのは容易じゃないわね・・・。
ミ:・・・。でも、確かに、ソルミさんの名前でした。私・・・何度も読みましたから。
チ:そう・・・。




ソルミは妊娠していなかった・・・。

そんな・・・。

ヒョンジュンと私の恋を終わらせたのは、赤ちゃんだったのに・・・。

ヒョンジュンはいつ、それに気がついたの?
結婚してすぐ? 彼女が打ち明けたの?

どんな気持ちだった・・・?

辛かった・・・?



ミンスは、絵のなくなった部屋を見回した。
今まであふれていたヒョンジュンの「気」のようなものが抜けて、部屋はまるで伽藍のように見える。さっきまで、ここには愛があった・・・。

でも、今はまるで抜け殻だ。

ミンスは、マグカップにコーヒーを入れ、両手で包み込むように持った。
ただ熱いだけだった・・・。
ヒョンジュンの愛はもうそこにはなかった・・・。


ミンスは部屋の中をぐるりと見渡した。壁にもカーテンにもソファにもキッチンにも、もう、ヒョンジュンの愛はなかった。ミンスはただ一人とり残された。

発狂してしまいたいくらいの、落胆・・・。

ミンスは苦しくて泣きたくなった。

エンプティ、それが今の心だ。
何も生み出すことのない「無」・・・。


空っぽ・・・。


終わってしまった・・・終わってしまったんだわ・・・。

あの人はもう、ここにはいない。







ヒョンジュンは今、ソウルデパートでの新作コレクションの発表を無事に終え、忙しく渡航の準備に追われている。

会長から、パリコレを見に行くように薦められたからだ。そして、小さなハウスでだが、東洋人を中心に招いてコレクションの発表をする。
たった一週間の日程で、まずはあちらで目ぼしいモデルを集めてのオーディションから始まり、途中、パリコレを見て、パリのテキスタイルの工房を何軒か訪ね、ヒョンジュンがH(アッシュ)・joonで展開したい独自のデザイン生地の製作を頼む予定だ。
今まで、自分が書き溜めてきた絵柄を生地にする。それは少々複雑な織を要するもので、韓国で作ったものでは、色彩も織りのうねりも、ヒョンジュンは気に入らなかった。そんなものをフランスで発注するなど、会長初め、経営陣は最初苦々しい顔をしていたが、H・joonの売れ行きが好調であることで、なんとか今回実現できるところまでこぎ付けた。

服のデザインも楽しいが、テキスタイルのデザインもヒョンジュンは好きだった。

それは油絵で培った感性を生かすことができたし、自分の心を映し出す作品を作り上げることができるから・・・。



ソルミは、最初、一緒にパリコレに行きたいと騒いだが、ヒョンジュンが一言、「これは遊びじゃないよ。君は友達と行ったら?」と言ったので、ソルミも、それ以上、食い下がれなかった。







ミンスは、心の中に、初めて大きな穴が空いてしまったことを発見した。
ヒョンジュンが結婚したときも悲嘆にくれたが、なぜか、心のどこかに、ヒョンジュンの愛が残っていて、ミンスを温めてくれた。そして、彼が去ったことはわかっていると言いながら、まるで、二人が一緒に住んでいるかのように、擬似的な生活を繰り返してきた。
でも、もう、ヒョンジュンは、ミンスに寄り添ってくれなかった・・・。


それは、「絵」がなくなったからだけではないと、ミンスは気づいている。

それは・・・ソルミが妊娠していなかったから・・・だ。


そのことがわかっても、連絡してこなかったヒョンジュン。
自分のところへは戻って来なかった彼・・・。

昔だったら、きっと戻ってきてくれたに違いない・・・おまえのほうが大事だからと。


でも、今の彼は、仕事を成功させて生き生きと暮らしている。

もしかしたら・・・心は私に残っているなんて、私の驕りでしかなかったのかもしれない。
ジフンが言ったように、今の生活を大事にして、いい旦那様に収まっているのかもしれない・・・。
そして、ジフンが考えたように、「彼は不幸」ではなく、ただ自分の画家としてのキャリアに、私との「恋を描いた絵」が必要だったのかもしれない・・・。





日曜日の朝、ミンスのもとへ、ヘスからの電話があった。


へ:ミンス、元気にしている?
ミ:うん・・・。うううん・・・実はあんまり・・・。
へ:どうしたの?

ミ:うん、ちょっとね・・・気分的に、今、暗い・・・。(暗いのではなく・・・空っぽ)
へ:そう・・・。私・・・あなたに教えたいことがあって・・・。でも、それを言うのも、あなたにどうかって、ものすごく悩んじゃって。(私もガックリしちゃったから)・・・でも、やっぱり、知らせておかなくちゃと思って。

ミ:何?
へ:ソルミさん・・・妊娠してなかった・・・。
ミ:・・・。(やっぱり・・・)

へ:この前って言っても、もう一ヶ月以上経っちゃったんだけど、ゴルフ場でね、見かけて。ほっそりとしてたわ。お友達とヒョンジュンの話に花が咲いてたのを、通りがかりに聞いちゃったの・・・。それで、その人がソルミさんだってわかった。
ミ:・・・そうだったの・・。

へ:驚いた・・・?
ミ:・・・うん・・・。

へ:それでね、私、思わず、「あなたのお金で彼を幸せにしてあげてください」ってタンカ切っちゃったの・・・。今、思うとマズかったかな。

ミ:・・そう。

へ:ミンス! あなた、大丈夫? 生きてる?
ミ:こうやって話してるじゃない・・・生きてるわよ。

へ:傷ついた?
ミ:でも、お姉ちゃんが言った通り、お金で幸せにしてもらっているのかも・・・。
へ:何言ってるのよ。あんなデザインして、幸せなはずないじゃない。仕事はやっていても、愛はないわよ。
ミ:そうかな・・・愛なんてなくたって、仕事があれば、男の人って生きられるんじゃない?

へ:ミンス。しっかりしてね。まあ、ヒョンジュンはもう人のものだけど・・・なんかさあ、これでハッピーエンドと思いたくないのよ。

ミ:まあね・・・でも、もうヒョンジュンは・・・私の中にいないの。
へ:え・・・?(驚く)

ミ:彼は、どこか遠くへ行っちゃった・・・。なぜか・・・私から消えたわ・・・。
ヘ:・・・他の人を好きになったの?
ミ:うううん・・・もう誰も好きになれないかもしれない・・・変な気分よ。

へ:・・・大丈夫・・・?

ミ:なんか・・・私の中が、空っぽなの・・・これから愛が生まれるなんて思えない。何にもないの。

へ:ねえ、こっちへいらっしゃいよ。一人暮らしはよくないわ。仕事休んでいらっしゃい、こっちへ。
ミ:大丈夫よ。死にはしないわ。死ぬ気も起こらないから・・・。それにね、お姉ちゃん、明日から、私、パリに行くのよ。
へ:なんで?
ミ:今度ね、ちょっと贅沢な会員制のレストランがオープンするんだけど、そこに置くダイニングのイス、ゴブラン織りにしようと思ったの。そしたら、特注がいいって言い出したのよ。それで、あっちのテキスタイルデザイナーと会うの。それとね、フランス刺繍のカーテンも注文しなくちゃいけないし。

へ:バカみたいに贅沢ね。そこまで、来たお客が見る?(笑う)
ミ:(笑う)その経営者の方が凝り性で、自分のためよ・・・ものすごいお金持ちなの。それで、迎賓館みたいの、作りたいって。

へ:へえ・・・それで、パリ? いいわね。一人?
ミ:うん。あ、あっちにはね、チェスクさんの知り合いの方がいるから。その方が工房とか全部、セッティングしてくれてるの。だから、私は行って、注文するだけ。(笑う)

へ:よかった・・・一人で全部するんだったらどうするのかと思ったわよ。
ミ:ホントはね・・・その人が全部やってもよかったのよ・・・。でも、チェスクさんがね、私があまりに寂しそうだからって、気分転換に行かせてくれるの。そのくらいの費用なんて、そのプロジェクトの中ではいくらでもないからって。

へ:そう・・・。じゃあ、パリの空気をいっぱい吸って元気になるのよ。ルーブルも行くんでしょ?
ミ:うん・・・それは外せないから・・・。(昔はヒョンジュンと一緒に行く約束だったけど)
へ:ごめんね。忙しいときに、変な話しちゃって。
ミ:うううん・・・ありがとう。でも、知ってよかったわ・・・じゃあね・・・。


ミンスは電話を切った。

もう皆が知っていることなんだ。

でも、あの医者の診断書はなんだったのか、その正体はわからないけれど・・・人の縁なんて、こんなものなのかもしれない・・・。







ジ:おい、毎日電話入れろよ。
ミ:大丈夫よ。そんなに心配しなくても。
ジ:「生きてます」でいいんだからさ。
ミ:バカね。(笑う) もうスーツケースも預けたし・・・さあ、あとは乗るだけ。



パリへ旅立つミンスを送って、ジフンも空港へ来ている。ジフンは、最近、ガックリと元気がなくなったミンスが心配で仕方がない。あの絵を画廊に預けたと言った時の、落胆したミンスの顔は、ジフンの胸を締め付けた。
たとえ、自分でなく、Hさんであろうと、ミンスには恋をして元気でいてほしい。あの時の空虚な目を忘れることはできない。



ジ:顔見せて。こっち、向いて・・・。
ミ:・・・。(ジフンの目を見る)何?

ジ:まあ、大丈夫そうだな。(笑う)
ミ:ありがとう。主治医が見送りまでついて来るなんて、ヴィップなみね。
ジ:当たり前さ。
ミ:・・・。


ジ:土産はいらないから。(笑う)
ミ:ほしいって聞こえた。(笑う)
ジ:・・・耳がいいなあ。(笑う)

ミ:あ、掲示板がついた・・・。もう、行くね。
ジ:うん・・・。


ジフンがミンスをギュッと抱きしめた。そして、顔を見た。


ミ:何?
ジ:・・・痩せたね・・・。あの絵を二人で見た時より、痩せた・・・。
ミ:・・・。
ジ:・・・。じゃあ・・・時間だから・・・行ってらっしゃい。(体を離す)
ミ:うん・・・ありがとう。


ミンスは、ジフンの差し出す手に握手して、笑顔を作った。









ヒョンジュンはオフィスの仕事の整理をして、パリへ持っていく資料を整えた。


だいたいこんな感じかな・・・。あ、そうだ・・・。


ヒョンジュンは、デスクの鍵のついた引き出しを開ける。
ヒョンジュンがお守りのように思っている匂い袋を取り出そうと、引き出しの中を覗くと、あの「診断書」が目に入った。

日付の改ざんされた診断書・・・。

結婚して、2ヶ月目にソルミの様子が心配になって、その医者を訪ねた。

そこで、わかったことは、あの診断書が2年前のものだったということ・・・。
つまり、彼女は2年前に誰かの子を宿したのだ・・・。そして、それを今回使った。


ヒョンジュンの中で、何かが大きく揺れた・・・。

愛する女を捨てて、結婚した顛末。

生まれてくる子供のために、築こうと努力した家庭・・・それはうその上に成り立っていた。ヒョンジュンは自分でも青臭いと思うが、うそとか偽善とか、大嫌いだった。なんとか、表面的に折り合いをつけて過ごせばいいのだろうが、ヒョンジュンにはそれができなかった。



医者の帰りに、懐かしい通りを歩いた。

そこには、ミンスが好きだった鯛焼きの店があり、彼女のような長い髪の女の子が、ボーイフレンドと鯛焼きを買っていた。しばらく行くと、二人がよく買いに行ったパン屋がある。あそこで、ミンスはいつも、普通のものより少し大きめのメロンパンを買った。

「これ食べると、元気になる・・・だから、寂しい時はこれを食べるんだ」
「結局、おまえは食い意地が張ってるだけだろ」(笑う)
「違うわよ!」



ヒョンジュンは、あの懐かしいメロンを買おうかと、パン屋に向かうと、中からミンスが出てきた。

懐かしい姿・・・。

今、彼女の所へ飛んでいって、「子供ができたのはうそだった。だから、またやり直そう」と言ったら、ミンスは自分を受け入れてくれるだろうか。

遠くからミンスを見つめていると、ミンスは、店を出たところに立っている電灯を見上げた。


「ねえ見て。あのチカチカいってる電灯って、ほら、言葉をしゃべってるみたい」
「なんて? ピーポ・ピーポ?」
「違うわよ・・・ほら!サランへ・サランへって・・・聞こえるでしょ?」
「ああ・・・ホントだ・・・」(笑う)
「ねえ!」


しばし、電灯を見入っていたミンスが、急に自分のほうへ振り返った。ヒョンジュンは、どうしていいかわからず、慌てて、脇道に隠れた。ミンスは、パン屋の袋を抱いて、自分の目の前を通り過ぎていった。


あの時でも、引き返せたのだろうか・・・。

でも、自分は恥ずかしかった・・・。ミンスにあんなに悲しい思いをさせたあげく、ケロッとした顔で彼女の前に出られるだろうか・・・。全部うそだったよと・・・。






ヒョンジュンは、診断書を奥へ押しやって、匂い袋を取り出した。それは胸ポケットに収まるように、薄く作られていた。パッチワークの袋の端に「M」と刺繍が施されている。大きな仕事に出るときは、必ずそれを内ポケットに忍ばせた。
それは、ヒョンジュンの心臓の鼓動を聞くと、ふわっとやさしい匂いを膨らませて、ヒョンジュンの心を癒した。








ミンスは、予定通りの日程を精力的にこなしていた。
チェスクが紹介してくれたパリ在住のテキスタイルデザイナーと何軒か目ぼしい工房を訪ね、美しいゴブラン織を注文することができた。


ミ:ヤンさん、ありがとうございました。おかげでいいものが手に入りました。
ヤ:よかった。ここのなら、どこへ出しても恥ずかしくないわよ。



二人は工房を出て、裏通りから細い抜け道を通って、大通りへの近道を歩いた。
もうすぐ、大通りに出るというところで、前から男が歩いてきた。


ミンスはじっとその男を見た。
歩き方、背格好、それはミンスがよく知っている彼にそっくりだ・・・。


男は立ち止まって、ミンスを見つめた。


ヤ:ミンスさん? どうかした?
ミ:・・・。


ヤンがミンスの見つめている方向を見ると、同じ東洋人が立ち止まってこっちを見ている。


ヤ:知り合い?
ミ:ええ・・・。


男は、ゆっくり近づいてきた。


ヒ:久しぶりだね・・・。
ミ:・・・。


二人は見つめ合った。


ヤ:どうしようか・・・。私、お邪魔かしら・・・。
ミ:そんなことはないです。

ヒ:二人でちょっとお茶でも飲める?
ミ:・・・。

ヤ:あなたがちゃんと帰れるなら、私・・・。
ヒ:送っていきます。

ヤ:じゃあ、失礼するわ・・・。
ミ:あ、すみません・・・。明日もよろしくお願いします・・・。


ヤンが一人帰っていった。


ヒ:仕事?
ミ:ええ・・・。
ヒ:歩こうか・・・。
ミ:ええ・・・。


ヒ:元気そうだね。
ミ:うん・・・。
ヒ:少し寒いね。どこかカフェでも入ろうか。

ミ:仕事で来ているの?
ヒ:そう。
ミ:もし、仕事なら・・・。
ヒ:もう今日はいいんだ。君と・・・少し、話をしたい・・・。(顔を見る)
ミ:わかった・・・。



二人は通りに出て、カフェに入った。外は少し寒いので、店の中の席に着いた。


ヒ:何にする? カフェオレ?(笑顔)
ミ:・・・うん・・・。

ヒ:デュ・カフェオレ、シルブプレ。


ヒ:今日は寒いねえ。
ミ:ホント・・・。
ヒ:ちょっとトイレ、借りていいかな。
ミ:どうぞ。(笑う)


ヒョンジュンがコートを脱いでイスにかけ、店の奥へ行って、化粧室の場所を聞いている。

ミンスはヒョンジュンが立った席を見る。やさしい香りがした。


はあ・・・。

ミンスは、こんな出会いにちょっとため息をついて、頬杖をつく・・・。

ふと懐かしい香りが鼻をかすめた。今薫っているのは・・・。

ミンスはヒョンジュンのコートのほうを見る。ヒョンジュンのコートから薫っているような気もしたが、そこに、カフェオレが来て、香りの所在はわからなくなった。


ヒョンジュンが戻ってきた。


ヒ:ごめん。
ミ:今、来たところよ。
ヒ:そう・・・。


二人は静かにカフェオレを飲む。


ミ:一人? 奥様も一緒?
ヒ:いや、オレとスタッフで来たんだ。今回は、パリコレを見て、生地を発注して・・・最後に、小さなハウスで、コレクションの発表をする・・・。
ミ:すごいのね・・・。

ヒ:君も仕事?
ミ:うん・・・。会員制の迎賓館みたいなレストランの内装を少し手伝ってるから。それで、こっちで買い付け。
ヒ:それもすごいな。

ミ:仕事は順調ね、お互い・・・。
ヒ:そうだね。

ミ:今の仕事、好き?
ヒ:う~ん・・・結構楽しいよ。
ミ:そう・・・。


ミ:あったまったわね。

ヒ:うん・・・。この間・・・ふと、君の好きだったメロンパンを思い出したよ・・・。
ミ:・・・あれ、おっきいよね・・・。
ヒ:うん・・・。あれ、食べると元気になるのを思い出した。
ミ:そうだった・・・。最近、買ってない。
ヒ:そう?

ミ:うん・・・一度買いに行ったけど・・・もう魔法は解けたわ・・・。
ヒ:そうか・・・。絵のことは・・・君に迷惑かけたね・・・。
ミ:迷惑だなんて・・・。


ミ:もう帰ったほうがいいわね・・・。暗くなってからの一人歩きは危ないもん・・・。


ミンスがコートを羽織った。


ヒ:送るよ・・・。どこのホテル?
ミ:・・・。
ヒ:オレには言えない・・・?
ミ:そういうわけじゃないけど・・・。
ヒ:送らせて。



ヒョンジュンも立ち上がって、コートを羽織った。
やさしい香りがミンスに届いた。


ヒョンジュン!


ミンスの鼓動は激しくなった。


カフェを出て、ヒョンジュンは、車の流れを見ながら、ミンスに聞いた。


ヒ:ここから遠いの? 歩いて行ける? タクシー捕まえる?
ミ:・・・。(じっと見つめる)
ヒ:どっち?
ミ:・・・。
ヒ:・・・。(ミンスのほうを振り返る)


ミ:・・・なぜ?
ヒ:?
ミ:なぜ、そんな古いもの、持っているの?


ヒ:何が?

ミ:匂い袋・・・。
ヒ:・・・。
ミ:・・・教えて・・・。(見つめる)


ヒ:・・・これは・・・君だから・・・。


ミ:・・・。
ヒ:いつも、おまえを抱いていたいから・・・。
ミ:・・・。


ヒョンジュンがそう言った瞬間、ミンスの胸の中に、ヒョンジュンへの想いが洪水のようにあふれ出して、ミンスは今にもおぼれてしまいそうになった。




8部へ続く・・・