詩篇32
2024-12-05

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
ダビデの詩とされています。
「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」(1,2節)
幸いである人は、咎を許され、神に不義とされず、心底から偽りのない人です。ダビデはかつて大罪を犯しました。預言者ナタンから指摘され、すぐに罪を認めました。でも、罪を隠していた間はとても苦しかったのでしょう。
「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。」(3,4節)
罪を告白しないと苦しみもだえ、骨も衰え力もでなくなるのでしょう。
「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。」(5節)
罪の告白は神にするのです。そうすれば神は罪を許してくださるのです。
「わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。」(8節)
神からの教えは、ダビデに行くべき道を示すことでした。神はダビデを見つめて諭してくださるのです。詩篇25篇でも書いたように、ダビデは人妻を手に入れるためにその夫を戦地で死ぬように工作しました。殺人罪です。このような大きな罪であっても、神に告白し悔い改めれば神は許してくださいます。そして今後どのように生きるか道を教え諭してくださるのです。
「あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。」(9節)
馬やロバは、人間がくつわや手綱で行くべき道を示す必要があります。いちいち教えられなくても自分で行くべき道を知っていれば、轡や手綱は必要ないでしょう。そのように自分を律したいものです。
「悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。」(10節)
悪人には悲しみが付きまといます。反対に神に頼れば神の慈しみに囲まれるのです。
「正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。」(11節)
神に許された者は、神から見て正しい者とされます。心から正直な者は、神から喜びと楽しみを受けることができます。嘘のない世界が神の世界です。きっと心が晴れ晴れとして喜びの声を大いに上げることでしょう。