詩篇38
2024-12-12

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
ダビデの詩とされています。
「主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。」(1,2節)ダビデは罪を犯したようです。それで神の憤りや怒りを矢のように突き刺さったと表現しました。
「わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。」(4~6節)
神への不義で、心は重く、傷口が悪臭を放つように感じます。うなだれて歩きます。
「わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。」(7,8節)
体を支える腰が焼け落ちたように感じます。肉体が侵されたように思い、うめき叫ぶのです。ダビデは本当に苦しい思いをしたようです。
「わが友、わがともがらは/わたしの災を見て離れて立ち、わが親族もまた遠く離れて立っています。」(11節)
そのような状況に友達も離れ、親族も遠ざかります。
「わたしのいのちを求める者はわなを設け、わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、ひねもす欺くことをはかるのです。」(12節)
ダビデは命を狙われたようです。それに対して「わたしは耳のきこえない人のように聞かず、口のきけない人のように話しません。まことに、わたしは聞かない人のごとく、議論を口にしない人のようです。」(13,14節)耳や口がないような行動を取ります。敵に反撃しないということです。
「主よ、わたしはあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそわたしに答えられるのです。」(15節)
ダビデの判断は、自分で行動するのではなく、神の判断を優先することでした。
「わたしは祈ります、『わが足のすべるとき、わたしにむかって高ぶる彼らに/わたしのことによって喜ぶことを/ゆるさないでください』と。」(16節)
ダビデは神に祈ります。自分が苦境に陥ったときに敵が喜ぶことのないように願うのです。
「ゆえなく、わたしに敵する者は強く、偽ってわたしを憎む者は多いのです。」(19節)
これは、イエス・キリストにも成就しました。全く罪のないイエスを、当時の主教指導者たちは勝手に不敬罪と称して磔にしたのです。
「主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください。」(22節)ダビデの祈りはイエスとつながります。イエスとはヘブライ語で「神は救い」という意味です。