詩篇39
2024-12-13

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
「わたしは言った、『舌をもって罪を犯さないために、わたしの道を慎み、悪しき者のわたしの前にある間は/わたしの口にくつわをかけよう』と。」(1節)
これはヤコブ3章6節に「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」にあるとおり、何世紀を経ても人間の不義は直りません。「言葉で過ちを犯さない人がいれば、それは完全な人で、体全体を制御できます。」(ヤコブ3;2)ともヤコブは書いています。完全な人がいないように、言葉を完全に制御できるのはヤハウェ神とイエス・キリストだけでしょう。
「見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも/息にすぎません。」(5節)
神は永遠に生きておられますから、それに比べれば人間の一生は無に等しく、活動時間は神にとっては一息に過ぎません。これはダビデの晩年の詩かもしれません。
「あなたは罪を責めて人を懲らされるとき、その慕い喜ぶものを、しみが食うように、消し滅ぼされるのです。まことにすべての人は息にすぎません。」(11節)
神が懲らしめるのは、人がそれによって改心することを願ってのことです。罪を憎みますが、人を憎むことはしません。罪は人を堕落させますが、その罪を消し去ることができるのも神なのです。実際に神はイエス・キリストを罪の贖いとして捧げられるようにして、人に罪がないようにされました。イエスは完全に果たしたので神は3日後にイエスを復活させたのです。このことは新約聖書のロマ書5章21節に「罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」と説明されています。やがて黙示録21章5節にある「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」という時代が訪れるのでしょう。それまでは我々の命は一息のように、短い時間しか生きられないのです。
「主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です。」(12節)
ダビデは自分の立場を理解していました。国王ではありましたが、旅人に過ぎない者で、一時的な寄留者だと言っています。つまりこの世界での命は一時的なもので、来るべき神の世界で永遠に生きたいと思っていたのでしょう。
将来的にダビデの望みは叶えられることでしょう。黙示録21章13節に「海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。」とあるのです。死者が復活して神の裁きを受けるのでしょう。神の裁きは厳しいものではなく、ダビデの望みが叶うはずです。