詩篇54
2025-01-15

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
これはジフびとがサウルにきて、「ダビデはわれらのうちに隠れている」と言った時によんだものとされています。
「神よ、み名によってわたしを救い、み力によってわたしをさばいてください。」(1節)
ダビデは神の御名と御力による裁きを期待しています。
「神よ、わたしの祈をきき、わが口の言葉に耳を傾けてください。」(2節)
ダビデはサウル王から逃げていたので、神に必死に祈ったことでしょう。
「高ぶる者がわたしに逆らって起り、あらぶる者がわたしのいのちを求めています。彼らは神をおのが前に置くことをしません。」(3節)
サウル王たちは、高ぶり荒ぶってダビデの命を求めます。彼らは神を差し置いて行動します。
「見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。」(4節)
ヤハウェ神はダビデの助け主であり、ダビデの命を守ります。
「神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。」(5節)
ダビデの敵に対して、ダビデ自身は戦うことはしません。逃げているのがその証拠です。ダビデは、神の真実をもって敵を滅ぼしてもらいたいと願うのです。
「わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。」(6節)
この当時は、神との会話は祭司が仲介しており、感謝の捧げものとして動物の生贄が用いられました。神が敵を滅ぼしたなら、捧げものを喜んで神にしたいと言うのです。
「あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。」(7節)
ダビデにとって、神があらゆる悩みを取り除いてくださり、すでに敵が敗北するのを見ることができたのでしょう。
ダビデは戦士でしたが、ヤハウェ神に対しては謙遜に生きました。追いかけてきたサウル王を打ち取ることもできましたが、そうしませんでした。なぜなら、サウル王もかつては神から油注がれた人だったからです。そのことがサムエル第一26章にあります。
「ダビデはまた言った、『主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。~そしてわれわれは去ろう』。」(サムエル第一26:10,11節)
このように敵対している相手に対しても、神に生かされていることを認めれば、うまく立ち回れるようです。人は神のもとでは平等です。