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横浜市鶴見区社会福祉協議会の
団体交流室

 詩篇111

2025-05-04

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
「主をほめたたえよ。わたしは正しい者のつどい、および公会で、心をつくして主に感謝する。」(1節)
これもダビデの歌のようです。ダビデは義人の集い、公の場で心から神に感謝を表します。
「主のみわざは偉大である。すべてそのみわざを喜ぶ者によって尋ね窮められる。」(2節)
神の御業は偉大ですが、それを尋ね極めることによって喜びを得られます。
「そのみわざは栄光と威厳とに満ち、その義はとこしえに、うせることがない。~主はおのれを恐れる者に食物を与え、その契約をとこしえに心にとめられる。」(3~5節)
神の御業は宇宙の創造から、天と地の創造、そして人の創造とを観れば栄光と威厳に満ちています。神を畏れる者には食物を与えて下さり、その約束を違えることはありません。
「主はもろもろの国民の所領をその民に与えて、みわざの力をこれにあらわされた。」(6節)
神は諸国民にも必要な所領を与えています。
「そのみ手のわざは真実かつ公正であり、すべてのさとしは確かである。」(7節)
神が行ってこられた事は全て真実で公正です。神の諭しは間違いありません。
「これらは世々かぎりなく堅く立ち、真実と正直とをもってなされた。」(8節)
聖書の記録を読めば分かりますが、神の御業で不信実や不正直だったことはありません。
「主はその民にあがないを施し、その契約をとこしえに立てられた。そのみ名は聖にして、おそれおおい。」(9節)
人類はすべてアダムとエバの子孫ですから、罪を負っていました。その罪を贖うために、地上に神の子であるイエス・キリストが、自らの命を贖いの犠牲として神に捧げたのです。今は1世紀のイエス・キリストが弟子たちと契約した最後の晩餐での約束が有効になっています。神の御名は神聖で畏れ多いものですが、一切使うなとの約束はありません。イエスも、神に祈るときに「父よ」と呼びかけています。(ヨハネ17:1~26)
「主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。」(10節)
神を畏れることは知恵の初めです。これは箴言1章7節の言葉と同じです。「知識はヤハウェを畏れることから始まる」とあります。これを行う者は皆良い悟りを得るのです。
畏れとは怖がることとは違います。恐怖とも違います。畏れは、自分より偉大で権威のある方に対する敬虔な態度です。誰でも偉い人に会う時には緊張したり身を低くして頭を下げたりします。それは相手への敬意の現れです。
ヤハウェ神は創造主です。宇宙の大きさに比べて人間はそれこそ埃のような一滴の水のような存在です。そのような人間に対して神は一人児のイエス・キリストを贖いとして命を与えてくださいました。これほど大きな愛を、一人ひとりに注いでくださる神を褒め称えるのは、当然のことのように思いませんか?