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横浜市鶴見区社会福祉協議会の
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 詩篇119

2025-05-19

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
聖書で最も長い章で折句になっています。折句とはヘブライ語のアレフからターウまでアルファベット順に初めの言葉を揃えた句のことです。
「おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。」(1節)
神の掟に従って歩む人は、行動が正されて幸福になります。
「若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。」(9節)
若者は経験が不足しているので、清い道を歩くのが難しいかもしれませんが、神の言葉に従いそれを守れば、清い状態を保てるでしょう。
「わたしはこの地にあっては寄留者です。あなたの戒めをわたしに隠さないでください。」(19節)アブラハムは神の言葉に従ってパレスチナ地方に移住しました。つまり寄留者でした。その子孫も寄留者でしたが、神の戒めを知りたいと願っていました。
「わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、あなたの道をもって、わたしを生かしてください。」(37節)
神から目を逸らすと、地上にある多くの物や金に心を向けてしまうかもしれません。そうではなく、神への道を示して生き続けることを願います。
「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。」(45節)
神の諭しは心を自由にしてくれるのです。
「主よ、わたしは夜の間にあなたのみ名を思い出して、あなたのおきてを守ります。」(55節)
夜に考え事をしていてもヤハウェ神を思い出します。そして神の掟を守ると誓うのです。
「たとい、悪しき者のなわがわたしを捕えても、わたしはあなたのおきてを忘れません。」(61節)
悪者に捕らえられても、神の掟を忘れずに行うことを宣言します。
「あなたの口のおきては、わたしのためには/幾千の金銀貨幣にもまさるのです。」(72節)
神が話される掟は、自分にとって幾千もの金銀にも勝ると言うのです。
「わたしの心を全くして、あなたの定めを守らせてください。そうすればわたしは恥をこうむることがありません。」(80節)
人間の心を完全にすることは、今は難しいでしょう。ここで詩篇作者は完全な心を求めているのです。神の定めに沿った生活をすれば、恥ずかしい思いはしなくて済むのです。
「わたしの目はあなたの約束を待つによって衰え、『いつ、あなたはわたしを慰められるのですか』と/尋ねます。わたしは煙の中の皮袋のようになりましたが、なお、あなたの定めを忘れませんでした。」(82,83節)
神の約束の到来が詩篇作者にとっては遅く感じて、燻された皮が固くなるように、心が固くなりますが神の定めは忘れません。
「わたしはすべての全きことに/限りあることを見ました。しかしあなたの戒めは限りなく広いのです。」(96節)
世の中にあるものはすべて限界があります。しかし、神の掟には限界がないようです。
「あなたのみ言葉はいかにわがあごに/甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。」(103節)
神のみ言葉は蜜のように甘く感じられるようです。苦い言葉ではないということです。
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(105節)
神のみ言葉はつまり聖書のことです。その言葉は闇夜での灯のように、道の明かりのように照らしてくれるので、つまづいたり転んだりしないで済むようです。
「悪をなす者よ、わたしを離れ去れ、わたしはわが神の戒めを守るのです。」(115節)
悪人に離れるように命じます。神の戒めを守ることは悪から離れることです。
「しもべのために保証人となって、高ぶる者にわたしを、しえたげさせないでください。」(122節)神の僕のために保証人になってくれるように神に願います。神が保証してくれれば、高慢な人から虐げられることはないでしょう。
「人々があなたのおきてを守らないので、わが目の涙は川のように流れます。」(136節)
詩篇作者は人々が神の掟を守らないことに悲しみ、涙が川のように流れたようです。
「あなたのあかしはとこしえに正しいのです。わたしに知恵を与えて、生きながらえさせてください。」(144節)
神は自らの存在を証明してこられました。神の知恵が与えられれば、生き永らえます。
「わが目は夜警の交代する時に先だってさめ、あなたの約束を深く思います。」(148節)
夜中に目が覚めて、神の約束を思い起こしたのでしょう。
「あなたのみ言葉の全体は真理です。あなたの正しいおきてのすべては/とこしえに絶えることはありません。」(160節)
聖書全体が真理であると言います。神の掟の真意は消えません。
「わたしはあなたの正しいおきてのゆえに、一日に七たびあなたをほめたたえます。」(160節)
詩篇作者は一日に七回神を賛美します。実際の回数ではなく象徴的な全き回数でしょう。
「わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。」(176節)
群れから迷い出た羊のように、羊飼いである神に探してもらうように願います。なぜなら神の戒めを忘れたわけではないからです。
長い章はこれで歌い収めます。たくさんの願いがありましたが、真理である神の言葉を忘れずに生きていくことを証したように思います。
イエス・キリストも1世紀に失われた羊を探しました。「イエスは答えた。『私は,イスラエル国民の迷い出た羊の所にしか遣わされていません』。」(マタイ15:24)