詩篇123
2025-05-26

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
都もうでの歌です。たった4節しかない短い章です。
「天に座しておられる者よ、わたしはあなたにむかって目をあげます。」(1節)
天に座しておられる方は、神です。詩篇作者は神に向かって目を上げるのです。
「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」(2節)
当時、奴隷が裕福な家庭にいたようです。それでもそれらの奴隷は今でいう召使のような存在でした。貧しい者たちは自分で家庭を持つことができないので、自分の身を差し出して裕福な家庭に仕えたのです。ですから、男奴隷もいれば女奴隷もいました。それらの召使は主人である男性の手を見て主人からの指示を待っていました。また、主婦である女性の手を見て主婦からの指示を待っていたのです。そのように地上にいる人々は神を見上げて神からの憐れみを待っているのです。
「主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。われらに侮りが満ちあふれています。」(3節)
神に対して、神の憐れみが示されるのを切に祈っています。なぜなら、周囲には人々を苦しめる軽蔑する者がいたからです。
「思い煩いのない者のあざけりと、高ぶる者の侮りとは、われらの魂に満ちあふれています。」(4節)
思い煩いのない者は、もしかしたら霊的な価値を認めない者かもしれません。ある程度生活も裕福だったのかもしれません。奴隷の主人であれば、思い煩いも少なかったでしょうし、高慢になって奴隷をさげすんでいたかもしれません。そのような主人であれば、主人の奴隷は毎日毎日心を悩ましていたことでしょう。
奴隷であっても、イスラエルの民は年に3回はエルサレムに行って神に祈りを捧げることができました。この歌はそうした奴隷が作曲したのかもしれません。言葉は少ないですが、苦しい毎日から解放されてエルサレムに詣でることは、とても喜びに満ちたに違いありません。
神は、そのような純粋で心からの訴えを聞いてくださいます。なぜなら、イエス・キリストはマタイ6章31,32節で「それで、心配して、『何を食べるのか』、『何を飲むのか』、『何を着るのか』などと言ってはなりません。 これら全ては異国の人々が必死に求めているものです。天の父は、あなたたちがこうしたもの全てを必要としていることを知っています。」
と言っているのです。
神は我々の日常の必要物をご存じです。ですから、明日のことを心配する必要はありません。神はこうした必要物を何らの方法で与えてくださるからです。なにしろ全ての物質は神が作られたのですから、神が適切に必要物を配ってくださるのです。