詩篇126
2025-06-02

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
都もうでの歌です。
「主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。」(1節)
西暦前6世紀ごろにエルサレムはバビロニアに滅ぼされました。その後メドペルシャのクロス王によってバビロニアは滅ぼされます。クロス王は寛大な王でユダヤ人がエルサレムに帰還することを許します。そしてその後の活動はエズラ記に記されています。
きっと、シオンの山に戻れた時は夢を見ているように感じたのでしょう。
「その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時『主は彼らのために大いなる事をなされた』と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。」(2節)
祖国に帰れたことは大きな喜びで、絶えず笑いの声に満ちていたことでしょう。そして諸国民さえも「神は彼らのために偉大なことをなされた」と感心せずにはいられなかったことでしょう。
「主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。」(3節)
ユダヤ人は辛坊強く神からの許しと恵みを願っていたのです。その思いが神に聞かれて、祖国に戻れたのです。
「主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。」(4節)
ネゲブは砂漠地帯です。それでも雨季になると川が現れます。そのように何もないような場所から水が湧き出すようにイスラエルの繁栄を願うのです。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」(5節)
荒れた地では作物ができるかどうか不安で、涙ながらに種まきをしたのでしょう。それでも神からの恵みによって作物を刈り取る時は、喜びの声を上げたに違いありません。
「種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(6節)
種は作物を生じます。でも全ての種が育つとは限りません。それでも種を蒔かないと作物は得られないのです。農家の人は作物が実ることを期待して種を蒔きますが、旱魃や豪雨で作物が得られないこともあります。それでも辛抱強く季節ごとに種を蒔くのです。
我々も、日々の活動で何のためにしているのか、成果が表れない時があります。勉強しても成績が上がらない。仕事をしても充実感がない。そのようなときにはこの聖句を思いだしましょう。
成果はすぐには表れないかもしれません。失敗することもあるでしょう。それでも続けることをしていれば、何か得るものがあるはずです。その継続する力の証明だったり、思わぬ助け船があったり、喜びの声が出る時があるのです。
「継続は力なり」です。