詩篇127
2025-06-03

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
ソロモンがよんだ都もうでの歌です。
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。」(1節)
ソロモン王は神のご意思で神殿を建立しました。これが人間だけの力で建てたのであれば空しいと感じるのでしょう。ヤハウェ神はご自身の意思で神殿を造らせて守ることもしたのです。それがなければ神殿を守る者も空しく感じたことでしょう。
「あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」(2節)
朝から晩まで働きどうしで食をつなぐことだけであれば、空しく感じるでしょう。神は愛する人に対して眠っている時でも必要な物を備えてくださるのです。イエス・キリストが地上におられた時、弟子たちが同行していました。奇跡的に食物を与えることもしました。公平に食物を分け与えられたのです。「またイエスは使徒たちに言った。『財布も食物袋もサンダルも持たせずに遣わした時、何にも不足しなかったのではありませんか』。使徒たちは、『はい、何にも』と言った。」(ルカ伝22:35)とあるとおりです。
「見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。」(3節)
子供はかけがえのない神からの賜物です。子宮の中の胎児は神からの報いなのです。子供を大切に扱うことが神から与えられた仕事なのです。
「壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。」(4節)
若く逞しい子供は勇士が持つ矢のように頼もしいのです。
「矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。」(5節)
矢筒に矢が少なければ心細く思うかもしれません。矢筒に矢が満ちているように逞しい子供が多ければ幸せを感じることでしょう。敵対者と対立して言い争いになったとしても、子供が多ければ恥をかかずにすみそうです。子供が敵対者と渡り合ってくれるからです。
ソロモン王の時代は平和な時代でした。敵が押し寄せてくることもありませんでした。それでもこの世には神の敵対者「サタン」がいたと思われます。サタンの言語の意味は敵対する者です。今もサタンは世の中に神の敵対者を増やそうとしています。神を中傷する者のことを「悪魔」と言います。
「悪魔でありサタンである龍」(黙示録20:2)にあるとおりです。黙示録は1世紀の終わり頃に書かれました。そして将来の預言の書でもあります。つまり今でもサタンは神に敵対し中傷しているのです。神はいない、神は見ていない、神から独立しろ、という宣伝をしているのです。神が人々を愛してイエスを地上に遣わしたことで反証できます。