詩篇128
2025-06-04

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
都もうでの歌です。
「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。」(1節)
ヤハウェ神を畏れて、神の道を歩むものは幸福になります。
「あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。」(2節)
当時、働いての結果は農産物や水産物だったでしょう。いずれにしても生きるために必要な食物が得られたはずです。そうなれば幸せで安心して生活を送れるはずです。
「あなたの妻は家の奥にいて/多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、あなたの子供たちは食卓を囲んで/オリブの若木のようである。」(3節)
家庭には妻がいて、ぶどうの木のように多くの果実を結んでくれるような存在です。つまり子供を産むということでしょう。子供たちも食卓をともにしています。オリーブの木から実を得ることができますし、その実からオリーブ油が取れます。当時の灯りはオリーブ油を使っていました。それで、その食卓にはオリーブ油の灯がともされていて明るい環境を提供していたように、子供たちの明るさを表したのでしょう。
「見よ、主をおそれる人は、このように祝福を得る。」(4節)
神を畏れている人は、このように祝福されるのです。以前にも書きましたが、畏れと恐れは違う言葉です。日本語は発音が同じなので分かりにくいのですが、畏れはかしこまるということです。高い権威者の前では誰でも畏れかしこまります。そのように神の権威を高く評価していることなのです。
「主はシオンからあなたを祝福されるように。あなたは世にあるかぎりエルサレムの繁栄を見、」(5節)
シオンは神殿のある場所です。神はそこに現れて貴方を祝福してくださるのです。生きている限り、イスラエルの首都であるエルサレムが繁栄することを見ると歌うのです。
「またあなたの子らの子を見るであろう。どうぞ、イスラエルの上に平安があるように。」(6節)
子供たちが子供を産めば孫が生まれることになります。当時の平均寿命は50歳程度だったでしょうから、孫の誕生を見ることのできる人は限られていたはずです。ですから子の子を見るということは、それだけ長寿を約束されたことになります。最後に詩篇作者はイスラエルの民の上に平安があることを祈ります。
神の道を歩むのは、神の掟を守ることです。当時の世界ではまだ、神の律法がその基準になっていたはずです。それはイスラエルの民を守るための法律でした。しかし、その律法はイエス・キリストが完全に果たされたので、現在では効力はなくなりました。「私が律法や預言者の言葉を取り消すために来た、と考えてはなりません。取り消すためではなく、実現するために来ました。」(マタイ伝5:17)と、イエスは言っています。