詩篇133
2025-06-10

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
ダビデがよんだ都もうでの歌です。
「見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。」(1節)
エルサレムに人々が集まり、和合している状態は本当に麗しく楽しいことだったはずです。
今でも、クリスチャンは定期的な会合を持ちますが、そこには身分や地位や役職や貧富の差はなく、お互いに神を信仰している者同士という固い団結力があります。自由があり平等で真理が語られます。楽しくないはずがありません。
「それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。」(2節)
中東の暑い国では、気分を爽やかにする香油を用いることがありました。客をもてなす行為としても高価な香油が用いられたようです。そのように高価な香油を頭に注がれ顎髭にまで流れ、衣の襟にまで流れるということはたっぷりと注がれたことを意味しています。
アロンは祭司職を表しています。王や祭司を任命するときに油そそぎを行いました。この歌は都もうでの歌ですから、祭司職の人々に焦点をあてたのでしょう。
「またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。」(3節)
ヘルモン山はイスラエルの北に位置している山で標高は2814mです。ですから夏でも雪をかぶっていることがあります。そこからの露がシオン(エルサレムの都)の山にまで到達することもあったでしょう。乾季において露は水の確保の上でも重要です。ヘルモンの露がシオンに下ることは潤いを与えてくる機会としてありがたかったと思います。
こうしてエルサレム周辺は乾季でも水不足になることがなく、農産物も確保されたと思います。これらのことはヤハウェ神が、その地域の産物が不足しないようにという神からの祝福です。それによってイスラエルの民は命を長らえることができたのです。
133章は3節しかありませんが、とても重要なことを知らせてくれます。クリスチャンはお互いのことを兄弟、姉妹と呼び合います。これはイエス・キリストが弟子たちに示されたからです。「あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。~あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。」(マタイ伝23:8~10)
このようにイエスは自分一人だけが先生であり教師であると言われました。イエスの直接の弟子であっても先生とか師とか呼ばれないように言いました。
つまり、古代であっても1世紀以降であってもこの原則は変わらないのです。クリスチャンは平等ですから、ブラザー、シスターと呼び合うのです。
教会では、教皇とか牧師とか呼ばれていますが、そのように階位をつけることをイエスは望まなかったのです。身分差別がないのは好ましく楽しいことです。