主な活動場所
横浜市鶴見区社会福祉協議会の
団体交流室

 創世記22

2025-08-08

創世記は旧約聖書の初めの書です。作者はモーセのようです。
「神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』。」(2節)
アブラハムに神はとんでもない事を命じます。愛するひとり子を犠牲として捧げるのです。
「三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。」(4節)
ベエルシバから徒歩で3日の旅をして、神の命ずる山に来たようです。
「やがてイサクは父アブラハムに言った、『父よ』。彼は答えた、『子よ、わたしはここにいます』。イサクは言った、『火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか』。」(7節)イサクの言葉からある程度成長した年代だったのでしょう。燔祭に子羊が必要であることを理解していました。
「アブラハムは言った、『子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう』。こうしてふたりは一緒に行った。」(8節)
アブラハムはイサクを犠牲として捧げる覚悟でしょう。もしくは直前に神が子羊を備えるかもしれないと思っていたのかもしれません。
「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。」(9節)
イサクは反抗しようと思えばできたかもしれません。そうしなかったのは父の神への信仰に敬意を示したためでしょうか?
「そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、~み使が言った、『わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』。」(10,12節)
アブラハムの信仰は神への畏れでした。我が子さえも惜しまないという必死の覚悟です。
「この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。」(13節)
これは一つの予表でした。ヤハウェ神はひとり子のイエス・キリストを人々が命を得るために捧げたのです。
「アブラハムは、イサクが死んでも神は生き返らせることができる、と考えました。そして、いわばイサクを死から取り戻し、それは1つの例となりました。」(ヘブライ11:19)
アブラハムの信仰は本当に凄みのあるものでした。そしてその子イサクも父への敬意に溢れていたと思います。そうでなければ、このような事は起きなかったでしょう。
神はアブラハムの信仰を試したとも言えますが、神はその試練に見事耐える信仰をアブラハムが持っていると確信していたので、試したのかもしれません。