イザヤ35
2026-01-20

イザヤは旧約聖書の預言者の一人です。新約聖書につながる預言もしています。
「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。」(1,2節)これは楽園が復活した様子を表しています。
「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる』と。」(3,4節)
神が来て救ってくださるので、人々は手が強められ、膝も強健になります。恐れることはないのです。
「その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。」(5,6節)
復楽園では、盲人の目が開かれ、聴覚障がい者は聞こえるようになり、足の不自由な者は飛び走り、言語障がい者は歌うようになります。地上も川が流れるようになるのです。
「焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。」(7節)
砂漠は池や泉に変わり、山犬が隠れるような荒野は葦やよしが茂るのです。
「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。」(8節)
大きな道は聖なる道です。神に近づく道でしょう。ですから汚れた者や愚かな者は、その道を歩むことができません。神が排除するのでしょう。
「そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。」(9節)
その道にはライオンも野獣もいません。これは実際の獣かもしれませんが、野獣のような性格の人々もいないことかもしれません。贖われた者だけがその道を歩めるのです。これはイエス・キリストの死によって人々が贖われたことを示しているようです。アダムとエバの子孫である人類はその親の性質を受け継いでいます。ですからその原罪を帳消しにするために完全な命であるイエスの犠牲が必要でした。イエスが死に至るまで神に従順であったように、我々もイエスに見習う必要があるのです。そうすれば、神に近づく道を歩めるのです。
「主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(10節)
エルサレム(神殿)で永遠に楽しみ喜ぶのです。悲しみや嘆きは無くなります。